織田信長(おだのぶなが)。
彼は画期的な政策を行って戦国時代の革命児として知られております。
そんな彼ですが、実は天皇家と婚姻関係にあった意外な事実を知っておりましたか。
彼は親王の子供を名目上自らの子供として貰い受け、
天皇家と関係を深めてどうするつもりだったのでしょうか。
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この記事の目次
天正7年:各方面の司令官が戦果を挙げていく
天正7年(1579年)は信長にとって有利な状況へと戦況が動いていくことになった年です。
この前年に本願寺と手を組んで、
反乱を畿内(きない)で起こした荒木村重(あらきむらしげ)の討伐に成功。
さらに中国地方でも大きな進展がありました。
中国方面司令官である羽柴秀吉(はしばひでよし)が、
備前(びぜん)の大名で毛利に味方していた宇喜多家を織田へ味方させることに成功。
丹波(たんば)平定を命じられていた明智光秀は丹波の豪族・波多野家を討伐し、
丹波平定を完了させております。
北陸方面の司令官を任されていた柴田勝家(しばたかついえ)は、
上杉謙信亡き後の上杉家の領土を確実に削り取っており、
各地の方面司令官は織田家の天下平定戦を完了させるために奮戦しておりました。
そんな中、信長は天皇家の親王である誠仁親王(さねひとしんのう)の五男を名目上
自らの子供として貰い受けたいと要請。
朝廷は信長の提案に応じて邦慶親王を信長の猶子として差し出すことにします。
この猶子ですが、養子とは違います。
後継者としての相続権はありませんが、
名目上は息子として扱われることを猶子と呼ぶそうです。
猶子邦慶親王の家を建てる
信長は自らの息子となった邦慶親王のために二条に新しい館を建設。
邦慶親王は信長に立ててもらった二条の新館へ生活の場を移すことになります。
こうして信長は親王の息子を自らの子供として向かい入れ、
天皇家と縁戚関係を結ぶことになりますが、彼の狙いはなんなのでしょうか。
信長のことを記した「信長公記(しんちょうこうき)」には信長が天皇家と縁戚関係になって
どのようなことをするつもりであったのかを記しておりません。
しかし邦慶親王とパパである誠仁親王と信長の間に色々な事が起きており、
そこから彼の狙いがある程度推察することができるでしょう。
信長の狙いを知るその1:誠仁親王を天皇にしようとしていた
少し時代を巻き戻して天正元年(1573年)当時の天皇であった正親町(おおぎまち)天皇は
高齢でありました。
彼の息子である誠仁親王は22歳でいつ天皇になってもおかしくない年齢を迎えており、
朝廷内では正親町天皇に対して「譲位されては」と言う話が持ち上がっておりました。
信長も朝廷へ働きかけて誠仁親王へ「天皇の位を譲ってはいかがでしょうか」と提案しておりました。
朝廷は信長の提案をすごく喜んだそうですが、実現はしなかったそうです。
理由はよくわかっておりません。
しかし信長は誠仁親王が天皇に即位することに成功していれば、
縁戚関係として天皇家の一員となることができ、
誠仁親王が亡くなった後、猶子として貰い受けた邦慶親王が皇位を継ぐことになれば、
日本の天皇に信長の血が交じることになります。
彼がここまで考えていたかは不明ですが、誠仁親王が皇位をついで天皇に就けば、
信長は天皇の縁戚となっていたのは確実と言えるでしょう。
信長の狙いを知るその2:誠仁親王が天皇に即位したら官位をもらい受ける
その後も信長はいくども「誠仁親王を天皇につければ良くない」と提案してたそうですが、
朝廷内で信長の提案を取り上げることなく天皇の交代は延び延びになっておりました。
そんな中、信長は配下の諸将を集めて京都で閲兵式(馬揃え)を行います。
信長はこの一大このイベントに天皇を呼ぶことを思いつき早速連絡します。
すると天皇は信長の要請に応えて閲兵式に参加。
こうして閲兵式は大成功のうちに終了することになります。
その後朝廷は信長へ「左大臣になってくれないでおじゃるか」と要請。
しかし信長は「誠仁親王が天皇になってから受けますよ」と言って断ったそうです。
朝廷は信長の意見を受けて会議を開いて誠仁親王の即位について話し合いを行います。
だがこの話し合いによって出た結果は、誠仁親王を即位させない方向で結論が出ます。
信長はこのため左大臣の位に就くことなく本能寺で倒れることになり、
誠仁親王も天皇になることはありませんでした。
戦国史ライター黒田レンのひとりごと
もし朝廷が信長の意見を聞いて誠仁親王が天皇に即位していたら、
どうなっていたのでしょうか。
レンの予想ですが、
日本の天皇家に信長の血が入っていたことになったのではないのでしょう。
なぜならば誠仁親王の息子を信長は猶子として貰い受けており、
誠仁親王が亡くなったら(もしくは彼を強制的に天皇の位を譲位させて)、
信長の猶子となった邦慶親王が天皇に即位することになる可能性は、
かなり高いと思われます。
上記を証左として信長が天皇家を取り込んで自らの血を天皇家に入れようとしていたと
考えられるのではないのでしょうか。
参考文献 中公新書 織田信長 脇田修著など
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