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アンゴルモア 元寇合戦記

フビライ・ハンとは何者?モンゴル帝国のラスボスに迫る!

この記事の所要時間: 733




 

欧州から極東アジアにまたがるモンゴル諸王国を代表する一国、元の皇帝であり、

文永の役、弘安の役において、日本に侵略軍を送り込んだのがフビライ・ハンです。

元寇(げんこう)をテーマにした冒険活劇チャンバラ、アンゴルモア元寇合戦記にも、

間もなく登場するであろう、フビライとは、どんな人物なのでしょうか?

 

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チンギス・ハンの孫として産まれる

 

フビライは、西暦1215年にチンギス・ハンの4男、トルイの次男として誕生しました。

つまり、彼はチンギス・ハンの孫という栄誉ある血統に産まれたわけです。

フビライの兄弟には、兄であり、4代モンゴル皇帝であるモンケ、イラン・イラク・

アナトリアを征服してイル=ハン朝を建国した弟、フラグ、そして五代モンゴル皇帝の

地位を巡り対立した弟のアリクブケ等がいます。

 

しかし、フビライの少年期、青年期には、ほとんど記録がありません。




大ハーンになった兄の命令で中国征服の命令を受ける

 

西暦1251年、36歳になっていたフビライは、4代のモンゴル皇帝になった

兄、モンケ・ハンの命令でゴビ砂漠以南のモンゴル諸軍の指揮権を与えられ、

中国征服の命令を受けます。

 

翌年、フビライは、所領とする長安を中心とする陝西地方を出発して、

最初に雲南への遠征に出発します。

フビライは南宋を刺激するのを避けてチベットの東部を迂回する苦しい行軍の結果、

西暦1253年には雲南を支配する大理国を降伏させました。

 

ここから見ると、家柄だけで皇帝になったボンクラではなく、

将軍としての実力を兼ね備えた人物である事が分かります。

 

兄モンケ・ハンと対立、失脚するが、その兄が疫病で死亡

 

雲南を征服した後は、元の金国の首都であった中都に移動し、その後は、

ドロンノ―ルにオルド(幕舎:移動式の司令部)を設置して、高麗への遠征、

南宋への攻撃を繰り返し、成果を挙げつつ、自身は漢人を登用して意見を聞き、

中国を攻略して安定統治する方法を模索し始めます。

実はフビライという名前の意味は「賢い」であるらしく、フビライは武人としても、

君主としても、相当な力量があったようです。

 

ところが、非凡なフビライは南宋の攻略方法で兄、モンケと対立しました。

これにより1256年、モンケ・ハンは、南宋攻略責任者からフビライを更迭したのです。

そして、東方三王家の筆頭であるテムゲ・オッチギンの孫のタガチャルに

南宋攻略を命令しますが、タガチャルは簡単に撤退してしまいます。

 

カッコがつかなくなったモンケ・ハンは自ら南宋を攻略する為に軍を率いて、

長安から侵攻しましたが、その途中に軍中で大流行した赤痢に感染し、

1259年に死去しました。

 

さあ、こうして、モンゴル皇帝の地位は空位になり、

謹慎していたフビライに再び運が巡ってきました。

 

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弟のアリクブケとモンゴル皇帝の地位を争い勝つ

 

モンケ・ハンの子供達は幼かったので、モンゴル皇帝の地位は、

モンケの兄弟達で争われる事になります。

しかし、フラグは中東への遠征の為にモンゴルを離れていたので、

地位は、フビライと末弟のアリクブケとで争われる事になりました。

 

モンゴルの伝統では、子供は次々に実家を出て行き、

独立して一家を構えるので末っ子が実家を継ぐ末子相続でした。

本拠地カラコルムで、モンケ・ハンの留守を守ったアリクブケは、

その点では帝位継承者として資格充分でしたが、彼には欠点がありました。

末っ子である為に跡取りとして大事にされ、戦闘経験が乏しかったのです。

 

一方のフビライは、モンケ・ハンの急死で敵地に取り残された東方三王家の

武将達を救出に向かい、成功していました。

東方三王家には武力に優れた人々が多く、フビライは華北の肥沃な土地の

経済力と東方三王家の武力を味方につけて、西暦1260年には

クリルタイ(最高部族会議)を招集して、自ら五代目モンゴル皇帝に即位します。

 

アリクブケもそれに対抗して、カラコルムでクリルタイを招集して皇帝に即位、

このようにして、モンゴルには二人の皇帝が並び立ちます。

ですが、軍事力と経済力に秀でるフビライは、緒戦のシトム・ノ―ルの戦いに勝利

カラコルムを奪い取り、アリクブルケを西方へ追いやります。

アリクブケも負けじとオイラト族の救援を得て、奇襲を掛けて、

一時はカラコルムを取りかえしますが、以後は優勢なフビライの経済力による

物資の封鎖を受けて衰弱し降伏しました。

 

モンゴルで初、中国風の元号を置いて元帝国を興す

 

1260年にモンゴル皇帝に即位して以来、フビライはそれまでに置いた漢人の

ブレーンの進言に従い、元号を中国風に中統として、行政組織を整備して、

軍事、監察、行政を確立して、紙幣の発行権を一手に握っていきます。

 

しかし、フビライが中国かぶれであったわけではなく、1271年、中国風の都、

大都を建設してもモンゴル貴族は、季節によって、大都と上都の間を往来する

遊牧民のスタイルを崩す事はありませんでした。

 

また、漢人の行政官僚が登用されても、その上にはモンゴル貴族が位置し

漢人がモンゴル人と対等になったわけではなく、漢字文化を奨励しながらも、

モンゴル文字を作成させるなど、飽くまでもモンゴルの伝統は維持しつつ、

漢民族の文化は便利な部分は利用しようという考えでした。

 

三人の息子を使い、同族との勢力争いに対応する・・

 

元王朝を建国したフビライですが、アリクブケと大ハーンの位を争った余波で

中央アジアのオゴデイ家とチャガダイ家が帝国の影響から離れて独立し

オアシス地帯などの旧モンゴル帝国領を横領、さらに元帝国の支配下にある

ウイグルなどの国家にも侵略の手を伸ばしていきます。

 

敵がいなくなると、今度は身内同士でトップを狙って争う遊牧民の致命的な

欠陥がここでも出現していますね。

 

そこで、クビライは夫人チャブイとの間に設けた三人の嫡子チンキム、マンガラ、

ノムガンをそれぞれ燕王、安西王、北平王に任じて方面ごとの軍隊を統括させます。

 

簡単にいうとキングダムの秦国六大将軍のように、

自由に軍を動かす権限を与えたわけです。

 

・安西王マンガラ・・・・クビライの旧領長安から中国の西部を統括

 

・北平王ノムガン・・・・モンゴル帝国の旧都カラコルムを中心にモンゴル高原を統括

 

・燕王チンキム・・・・・中書令兼枢密使として華北および南モンゴルに広がる

元帝国中央部分の政治と軍事を統括。

 

こうして、広大な帝国を三人の息子に管轄させて、

フビライは、その上に皇帝として君臨する事になります。

 

南宋を落し高麗、ビルマを傀儡にするも、日本やベトナムには敗れる

 

1276年には将軍バヤン率いる大軍が南宋の都臨安を占領、南宋を滅ぼします。

フビライは、前後する期間にアフマドやサイイドのようなイスラム財務官僚を登用

専売や商業税を充実させ、運河を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が

大都に集積されるシステムを作り上げ、帝国の経済的な発展をもたらします。

 

これに伴い、元王朝の経済は成長し、はるばるヴェネチアから

マルコ・ポーロのようなヨーロッパ人商人も訪れるようになります。

しかしアフマドやサイイドは、請負制を採用したので、徴税官はノルマを満たそうと

規定よりも多く徴税し、イスラム財務官僚は多数派の漢族に恨まれるようになります。

 

 

こうして、豊富な軍資金を背景に、フビライは、治世の初期から服属していた

高麗(こうらい)で起こった三別抄(さんべつしょう)の反乱を鎮圧して後

13世紀末には事実上滅亡に追い込みます。

 

一方で高麗に対しては、幼少期から人質として手元に置いていた

高麗の忠烈王に王女クトゥルク=ケルミシュを降嫁させる方法を取り、

王女の子に高麗王朝を世襲させる形で傀儡化する手法が取られました。

忠烈王以後の高麗王は、幼少時は元の宮廷で育ち成人すると朝鮮へ帰還するので

元王朝の忠実な臣下として振る舞う事になるのです。

 

また西暦1287年にビルマのパガン王朝を事実上滅亡させると、

高麗同様に、傀儡政権を樹立して一時的に東南アジアまで勢力を広げます。

 

しかし、この頃からは元帝国の勢いにも陰りが見えだし、1274年及び

1281年の日本への侵略(元寇)はいずれも無残な失敗に終わります。

さらには、樺太アイヌへの侵略やベトナムの陳朝チャンパ王国への攻撃、

ジャワ島のマジャパヒト王国などへの遠征は、いずれも現地勢力の

激しい抵抗を受け目的を到達する事は叶いませんでした。

 

オゴデイ家のカイドゥがモンゴル諸王族を纏めて刃向かう

 

さて、フビライとアリクブケの皇位継承争い以来、

モンゴルの同族が支配する中央アジアに対しては、西暦1275年、

北平王ノムガンがチャガタイ家の首都アルマリクを占領することに成功します。

 

ところが、占領は束の間に終わり、翌年モンケの遺児シリギをはじめとする

モンケ家、アリクブケ家、コルゲン家など、元々はノムガンの軍に従軍していた

王族たちが反乱を起こし北平王ノムガンは捕らえられ捕虜となり

その軍は崩壊してしまいます。

 

大混乱に陥ったモンゴル諸王家からはオゴデイ家のカイドゥが出現し

中央アジアの諸王家を統合して公然と元帝国に反抗を開始しました。

これに対してフビライは南宋征服の功臣バヤン率いる大軍をモンゴル高原に向けて

カイドゥを抑えますが、1287年には即位時の支持母体であった東方三王家が

オッチギン家の当主ナヤンを指導者として反乱を起こします。

 

この頃には、後継者と目した燕王チンキムも前年に死んでおり、

安西王マンガラも1280年には父に先立って死去していました。

こうして72歳になっていた老齢のフビライが反乱を鎮圧せざるを得なくなります。

フビライはキプチャクやアス、カンクリの諸部族からなる侍衛親軍を率いて親征、

遼河での両軍の会戦で勝利します。

 

当主のナヤンは捕縛、処刑されますが、この反乱に懲りたクビライは

東方三王家であるジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の

当主たちの首をすべてすげ替えました。

 

オゴデイ家のカイドゥは内乱を見てモンゴル高原への進出を狙いますが

フビライは翌年ただちにカラコルムへ進駐し、カイドゥ軍を撤退させますが、

一方で、東方三王家で、逃げ延びたカチウン家の王族カダアンはなおも抵抗し、

各地で転戦して高麗へ落ち延びてこの地域を掠奪しています。

 

反乱は、1292年に皇孫テムルが派遣されて元朝と高麗連合軍によって

カダアンを破り、敗死させて5年間に及んだ東方の混乱は収束しました。

 

1294年、北京で79歳の大往生を迎える

 

1260年に45歳で即位してより、フビライの在位は30年を超えました。

その中で、フビライの三男の燕王チンキムが、行政機関である中書省と

軍政機関の枢密院を支配して中央政府の実権を握った事から権勢を増し、

その為に1273年にフビライにより皇太子に立てられます。

 

一方、フビライが南宋攻略後に登用したイスラムの財務官僚のアフマドも

華北と江南の各地で活動する財務官僚に自身の党派に属する者を配置していき

元王朝では軍事と内政を握る、燕王チンキム派と財務官僚のアフマド派の間で

熾烈な権力争いが発生しますが、1282年にアフマドは燕王派の官僚により暗殺。

 

これにより燕王、チンキムを脅かす勢力は消滅し、重臣の中には、

高齢のフビライに退位してもらい、チンキムの即位を願う者まで出ます。

しかし、1285年には帝位目前のチンキムは病死し、帝位はその三男の

皇太孫、テムル(成帝)へと移る事になります。

 

中央アジアでは、建国の功臣バヤンが頑張ってカイドゥと戦っていましたが、

次第に元の敗色が濃厚になっていきました。

そこで、フビライは1293年、バヤンを召喚し後継者として指名したテムルを

中央アジアに派遣して総司令官の印綬を与えますが、間も無く病気になり

1294年、79歳の大往生を遂げます。

 

アンゴルモア元寇合戦記 kawausoの独り言

 

フビライは、その生涯で、領地の拡大と縮小、内乱と遠征を矛盾なく繰り返した人物で

勇猛なモンゴルの皇帝らしく、生涯現役であり続けました。

そんな彼が、一番苦しめられたのが、同じモンゴルの王族の反乱であった事も、

いかにも遊牧民の帝王であった彼らしい人生であったと言えるでしょう。

 

フビライは、日本侵略に執念を燃やし、三度目の元寇を計画していましたが、

同族のカイドゥの反乱と、アフマドの暗殺後、悪化する一方の財政の前に、

それを断念せざるを得なくなりました。

もし、同族の反乱が起きなかったか、早期に鎮圧されていたら、

フビライは躊躇なく第三次の元寇を起こしたかも知れませんね。

 

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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—

 




 

kawauso

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三度の飯の次位に歴史が大好き

10歳の頃に横山光輝「三国志」を読んで衝撃を受け
まずは中国歴史オタクになる。
以来、日本史、世界史、中東、欧州など
世界中の歴史に興味を持ち、
時代の幅も紀元前から20世紀までと広い。
最近は故郷沖縄の歴史に中毒中、、

好きな歴史人物:

西郷隆盛、勝海舟、劉邦、韓信、、etc

何か一言:

歴史は現在進行形、常に最新のジャンルです。

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