義兄弟・張苞と関興はどこまでが三国志演義の創作なの?

2017年6月11日


 

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ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく

「ろひもと理穂の三国志・2世の活躍」のコーナーです。

 

 

劉備(りゅうび)と死ぬときは一緒と「桃園の誓い」を交わした

義兄弟の関羽(かんう)張飛(ちょうひ)は、劉備より先に亡くなりました。

219年に関羽が孫権の裏切りにあって背後を突かれて捕らえられ、処刑されます。

長子である関平も同じく処刑されています。

 

 

221年に張飛が部下の裏切りにあって寝首を搔かれて殺されました。

関羽の弔い合戦に出陣する直前のことです。

独り取り残された劉備は配下の静止を振り切って孫権を攻めます。

 

 

義弟を殺され怒りに燃える劉備でしたが、内心は寂しかったに違いありません。

絶望すら感じていたのではないでしょうか。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志演義には2世が登場し、大活躍!

 

そんな劉備の前に現れたのが、

関羽の次子・関興(かんこう)と張飛の長子・張苞(ちょうほう)でした。

二人は先陣を巡り争いますが、劉備のとりなしもあり、義兄弟の契りを交わします。

親同士は義兄が関羽、義弟が張飛ですが、その子供同士は義兄が張苞、義弟が関興と逆になっています。

張苞は父親に劣らぬ猛将として活躍。

 

 

父親である張飛を暗殺した張達と范彊をその手で処刑し、仇を討っています。

関興も張苞と同じく活躍し、父親である関羽を捕らえた潘璋を討ち、

見事に父親の愛用していた青龍偃月刀を取り返しています。

つまり蜀は大敗しましたが、張苞も関興も父親の無念を晴らしたわけです。

蜀ファンにとっては胸のすく思いでしょう。

劉備も義弟の息子たちの立派な活躍に涙を流して喜んだのではないでしょうか。

関羽と張飛の志、魂がしっかりと息子たちに受け継がれていたのです。

 

関連記事:蜀の武将・張達(ちょうたつ)と范彊(はんきょう)に同情の余地はあるの?

関連記事:桃園三兄弟の別れ 関羽の死から夷陵の戦いまでを辿る

 

三国志「正史」ではどう描かれているのか?

 

しかし、驚くことに三国志「正史」にはまったく別のことが記されています。

まず張苞ですが、父親である張飛が暗殺される以前にすでに亡くなっているのです。

張飛似の猛将だったのか定かではありませんんし、

劉備とともに「夷陵の戦い」に出陣することもできなかったわけです。

関興と義兄弟の契りを結んだ記録もありません。

関興については、関羽の死後、家を継いだと記録されています。

異例の大抜擢を受けて出世しましたが数年後に亡くなっています。

武勇面での活躍の話は残されていません。

正史において、張苞と関興はまったく注目されていないわけです

 

三国志演義では北伐にも従事

 

張苞と関興兄弟は、諸葛亮孔明に従い北伐にも参加しています。

張苞は第二次北伐に参加した際に谷に落ちて負傷し、そのまま亡くなりました。

228年の話ということになります。

関興は第三次北伐まで参加していますが、

病気のためその後の北伐には参加できず病没しています。

229年までは生存していたことになります。

正史と三国志演義では活躍する場面から亡くなる年までまったく異なるのが、張苞と関興なのです。

 

--- 北伐特集 ---

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

 

ちなみに三国志演義では関興に討たれる潘璋ですが、正史ではそのような記述は見当たりません。

潘璋は戦死するどころか、夷陵の戦いの後、平北将軍・襄陽太守と出世し、

孫権が皇帝に即位した際には右将軍に任じられています。

亡くなったのは234年と記されています。

つまり関興が潘璋を討ったという話は蜀ファンの希望であり、想像の産物です。

このような事例が、三国志演義はフィクションであると評価される由縁なのでしょう。

三国志演義を柱にして三国志の世界を構築してしまうと、やはり蜀びいきになります。

呉で活躍した英雄たちは、蜀の英雄の踏み台にされ、正当な評価を受けられなくなるのです。

関羽、張飛の息子たちが志を受け継いで活躍してくれる姿を私も見たいですが、真実は別なのかもしれませんね。

いつの時期のどこの戦場にも二人の姿はなかったかもしれないのです。

皆さんはどうお考えですか。

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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