王修(おうしゅう)とはどんな人?袁譚を最後まで支え続けた忠臣に曹操もリスペクト


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袁紹(えんしょう)が亡くなると袁紹の後継者の座を巡って

袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)の兄弟が争いを始めます。

両者は結局曹操に滅ぼされてしまうのですが、

袁尚と袁譚には忠臣と呼ばれる人物がおりました。

袁尚には審配(しんぱい)と呼ばれる忠臣がおり、

彼は袁尚が曹操軍に敗北して北方へ逃亡した後も鄴城を守り続けた忠臣です。

袁譚にも審配のような忠臣がおり

今回はこの忠臣・王修(おうしゅう)をご紹介したいと思います。

 

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嫌がらせを受けるも・・・・

 

袁譚は青州(せいしゅう)を父袁紹から任されることになると一人の人物を召し出して、

配下に加えます。

その人物の名は王修(おうしゅう)と言います。

彼は袁譚に仕えると同僚であった人物から度々嫌がらせを受けておりましたが、

彼は激怒してその人物にやり返すことなく、黙ってやり過ごしておりました。

そんな中、王修に嫌がらせをしていた人物が死刑を宣告されることになります。

この時王修は自分に嫌がらせをしてきた人物の裁判を受け持つことになるのですが、

彼の刑罰である死刑を免じて許してやります。

この結果袁譚の配下や民衆達はおおいに彼を褒め称えたそうです。

この事件を聞いた袁紹は彼を自らの配下として迎え入れ、

数年間袁紹の元で仕えた後再び袁譚の配下として帰ってくることになります。


部下と民衆を連れて救援に向かう

 

袁紹が官渡の戦いで曹操軍に敗北。

この敗北が原因で袁紹が亡くなると袁譚と袁尚は袁紹の後継者の座を巡って、

争い始めます。

袁尚は兄である袁譚を滅ぼすために攻撃を開始。

袁譚も袁尚軍を迎撃するために出陣するのですがこてんぱんにやられてしまいます。

王修は袁譚が敗北したことを知ると部下と民衆を集めて袁譚を助けに行きます。

袁譚は王修が救援しに来たことを大いに喜び「我が軍が敗北してなお、

散りぢりにならないのは王修のおかげである」と彼を褒めまくったそうです。

しかし袁譚の敗北が青州各地に広まると一斉に袁譚へ反乱を起こして、

領土内はガタガタになってしまいます。

 

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再び袁尚攻撃を行おうとする

 

袁譚は領内で反乱を鎮圧して再度袁尚へ攻撃を仕掛けるべく準備を行います。

王修は袁譚が再び袁尚へ攻撃しようとしていることを知ると彼に

「ご兄弟が争っている状態が続けば必ず滅亡します」と忠告。

袁譚は彼に「どうすればいいのだ」と相談します。

すると王修は彼に「兄弟を例えるならば左右の手です。

戦に望む際に右手をぶった斬って「俺は負けない!!」というバカはいないでしょう。

また殿の配下には色々と袁尚様の悪口を言って戦わせようとする奴らがおり、

奴らを追放して、袁尚様と語り合うことが最良の道であると考えます。」と進言します。

しかし袁譚は彼の言葉を聞かないで袁尚へ攻撃を仕掛けるも再びボコボコにされます。

この時袁譚は敵である曹操と同盟を結んで助けてもらい、

なんとか領土へ撤退することになります。


急いで救援に向かうも・・・・

 

その後袁譚は袁尚が曹操軍に敗北して北へ逃走すると袁尚の領土を奪っていき、

曹操との同盟を破棄して決戦を行います。

王修はこの時兵糧輸送を行っていたのですが、袁譚が南皮(なんぴ)城に篭城し、

いつ陥落してもおかしくない状態に追い込まれていることを知ります。

彼は兵糧輸送を部下に任せ、数十人を率いて南皮城へ救援しに行くのですが、

南皮城へ到着する前に袁譚は討ち取られておりました。

王修は南皮城へ行き曹操へ「我が主君の遺体を埋葬したい」と伝えますが、

曹操は一切彼の言葉に返事をしませんでした。

そこで彼は再び口を開いて「私は袁譚様から多大な恩を頂戴しており、

彼の遺体を埋葬し終えたならいつ処刑しても結構です」と

袁譚の遺体をどうしても埋葬する強い意志を見せます。

曹操は彼の強固な意志を見たことに気をよくして袁譚の遺体を王修へ渡してやることにします。

王修は袁譚の遺体を引き取ると手厚く彼を埋葬したそうです。

 

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三国志ライター黒田レンの独り言

 

王修は袁尚における審配のような忠臣と言っていいのではないのでしょうか。

彼が少ない軍勢でありながら君主を救援しに行く姿はまさに忠臣と言えるでしょう。

しかし仕える君主がポンコツ過ぎたため、

彼のまっとうな意見も採用されることなく滅びてしまいます。

もし彼の意見を袁譚が採用して袁尚と仲直りするよう努力していれば、

歴史は変わることになります。

そして袁譚と袁尚が仲直りをした場合、

曹操の河北統一事業はかなりの時間を要していたのではないのでしょうか。

 

参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志2 今鷹真・井波律子著など

 

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