ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・リーダーの決断」のコーナーです。
後漢最後の皇帝となる献帝・劉協は、196年にかつての都であった洛陽に辿り着きます。
献帝はわずかな供を連れて、李傕や郭汜ら董卓の残党が支配する長安を脱出していたのです。
このときの皇帝には賊徒を倒す軍事力もなければ、群雄らに指示するような統率力もありませんでした。
途方に暮れる献帝を救えるのは、冀州の袁紹か、兗州を呂布から奪還した曹操か、
やや距離があるものの揚州の袁術か、荊州の劉表のいずれかということになります。
項羽(こうう)の失敗から学ぶ
「西楚の覇王」こと項羽(こうう)はかつて絶大な力を手にしながら、
最終的に劉邦(りゅうほう)に敗れて自害しています。
項羽が劉邦に敗れるきっかけになったのが楚王の扱いです。
項羽は楚の懐王を傀儡とし、秦を滅ぼした後の皇帝としました。義帝の誕生です。
しかし義帝は次第に自立を目指すようになります。
邪魔になった項羽は義帝を暗殺することにしたのですが、これによって項羽は人望を失ったのです。
そして劉邦に逆転の機会を与えることになりました。
帝を推戴するということは、メリットもあればデメリットもあるのです。
特に後漢皇帝に代わって天下に号令をしたい、
という野心を持っていればデメリットの方が大きくなります。
この事例があり、献帝を保護すべきかどうかで袁紹や曹操は悩むのです。
リーダーの決断
献帝の保護について、劉表はアクションを起こしておらず、
袁紹に従うような方向性だったと思われます。
袁紹は沮授や田豊の進言もあり、かなり悩んだようです。
しかし、献帝に指示を受けるようになり、それに従わないと名声を失う危険性があることと、
いずれは漢王朝に替わって天下を支配する野心から、献帝の保護を取りやめたようです。
献帝自体が董卓の擁立した皇帝であり、
万民に認められているわけではなかったという背景もあったのではないでしょうか。
袁術は献帝の保護に動いています。
しかし曹操に先を越されました。
曹操もやはり献帝の保護には悩んだようです。
反対した家臣も多くいました。
最終的には荀彧の進言を受け入れて献帝を保護しています。
曹操には献帝を保護した場合のメリットの方が大きかったということでしょう。
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献帝保護のメリット
193年に曹操は徐州に攻め込み大虐殺を行っています。
そのため人心が曹操から離れていきました。
特に徐州に縁の有る名士たちから恨まれる結果になったのです。
この状況を挽回し、名声を高め、名士たちの力を利用するためには漢室復興のスローガンは重要でした。
河北の雄・袁紹をしのぐ勢力を築くためには、献帝の持つ権威が必要だったというわけです。
曹操は袁紹に遠慮して大将軍の位を譲っていますが、
実はこうして着実に袁紹に迫る力をつけていったのです。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
もし曹操が献帝を保護しなければ、
名士はおろか武将や兵卒に至るまで曹操陣営の多くが袁紹になびくことになったでしょう。
官渡の戦いの際の曹操軍・袁紹軍の勢力差は歴然としていましたが、
これも献帝を保護していたからこの差で済んだと考えたほうがいいかもしれません。
つまり献帝を保護していなければ、
「曹操は官渡の戦いで袁紹に敗れていた」のではないでしょうか。
というか袁紹の圧勝ですね。
問題はそうなると袁術が献帝を保護していたことになり、
曹操をしのぐ勢力になっていた可能性があります。
歴史が大きく変わり、「官渡の戦いは袁紹VS袁術」になっていたかもしれません。
献帝の保護という決断が、曹操にとって将来を左右する重要なものだったわけです。
しかし、項羽の前例があり、
曹操が皇帝になる道も閉ざされたという側面もあるのではないでしょうか。
皆さんはどうお考えですか。
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