孫策涙目になるほどのフルボッコ!?小覇王をコテンパにした陳登

2017年6月29日


 

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江東の小覇王として君臨していた孫策(そんさく)

袁術の元から兵を分けてもらうと江東へ進出して一気に江東の軍閥を討伐して制圧。

その名を天下に届かせます。

 

 

そんな彼が徐州の名士である姓は陳、字は元龍(げんりゅう=陳登の)に

コテンパンにされることがあったそうです。

徐州の名士である陳登(ちんとう)はどのようにして江東の小覇王をコテンパンにしたのでしょうか。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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小覇王の軍勢がやってくる

 

陳登は呂布(りょふ)が徐州を占有していた頃、呂布の使者として曹操と会見したことがありました。

この時に彼は広陵(こうりょう)の太守に任命されます。

その後呂布が曹操に討伐されるとそのまま曹操の家臣となり、

伏波将軍(ふくはしょうぐん)の位を与えられ引き続き広陵を治めることになります。

そんな中、江東の孫策が陳登の居城としている城へ攻撃を仕掛けてきます。

孫策の軍勢は河が全て軍勢で覆い尽くすほどの大軍であったそうです。

 



部下の進言

 

陳登の部下は陳登へ「孫策軍は大軍で我が軍では少数しかいません。

この城で大軍を防ぎ切ることはできないでしょう。

そこで一旦この城を孫策軍に与えてから逆襲するのがいいのではないのでしょうか。

水戦を得意とする奴らが陸に上がれば我らとまともに戦うことはできないと考えます」と

進言します。

陳登はこの進言を聞くと激怒して反論します。

 

「伏波将軍の名にかけて逃げ出すことはできない」by陳登

 

陳登は部下の進言を聞くと彼に「バカ野郎!!逃げ出せることなんてできるか。

俺は伏波将軍だ!!昔この将軍の位に就いていた馬援(ばえん)は

南方討伐に向かった際大いに蛮族を蹴散らし、

北方に赴いた時にも異民族達にひるむことなく討ち滅ぼした。

そんな重い将軍の位を持っている私が一戦もしないで逃げることなんてできるか。

私は国家の正義に従って向かってくる賊軍を打ち払うのみである」と反論。

この陳登の反論を聞いた部下は陳登の指示に従って城門を閉ざして、

一切の音を立てることをやめさせるように命令を伝達します。

 

一気に孫策軍へ突撃を行う

 

陳登は城壁に上って孫策軍の様子を見ると明らかに油断している様子が伺えます。

そして彼は兵士達へ「明朝。城門を開いて孫策軍に突撃を行う。

夜のうちにしっかりと武器を整えておくように」と命令を下します。

そして陳登率いる軍勢はしっかりと武器を点検して夜明けを待ちます。

夜が明けると陳登は孫策軍が駐屯している城門と反対の城門を開いて、

孫策軍へ突撃を開始。

油断して切っていた孫策軍は陳登軍の突撃を受けてしまい大混乱に陥り、

船に乗ることもできずに陳登軍の攻撃を受けてい片っ端から討ち取られてしまい、

死傷者は数万人に登ったそうです。

その後孫策軍は再び陳登軍へ攻撃を仕掛けるため進軍を開始。

孫策軍の再攻撃を受けた陳登は部下である陳矯(ちんきょう)を曹操の元へ派遣して、

援軍を送ってもらうように要請を行います。

 

作戦が大成功

 

 

陳登は孫策軍が再度攻撃を仕掛けてくる意志を見せると

孫策軍にバレないよう薪を持ってこさせて城の後方へ陣営をいっぱい作らせます。

そして夜中この陣営に火をかけて曹操の大軍が来たように見せかけます。

この火は後方の山にまで飛びして山火事となり盛大な炎を挙げることになるのですが、

この炎を見た孫策軍は曹操軍の大軍が来たと勘違いして一斉に退却。

こうして陳登は自らの知略と勇気で孫策軍の大軍をコテンパンにするのでした。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

陳登は上記の作戦によって孫策軍をコテンパンにすることに成功。

江東の小覇王としてほとんど負けなしで勝ち続けていた孫策軍に

負けの味を味あわせたのは陳登が初めてではないのでしょうか。

そんな彼は非常に民衆から慕われておりこの戦の後異動することになるのですが、

広陵の民衆は陳登の後を追っていったそうです。

しかし彼は民衆へ「俺はダメな太守だ。君たちを戦に巻き込んでしまったからだ。

次に来る太守は俺よりしっかりとしているはずだから心配はいらないよ」と

言って諭して広陵へ帰したそうです。

 

参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書2 今鷹真・井波律子著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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