ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・もしもボックス」のコーナーです。
三国志史上、最も重要な戦いとなった「赤壁の戦い」。
映画化もされたほど有名な戦いです。
曹操と孫権、そして劉備が登場して激戦を繰り広げます。
智謀の臣として周瑜や諸葛亮孔明も大活躍しています。
曹操は慣れない水上戦と疫病に悩まされ、偽の投降に騙されて火計で甚大なダメージを被りました。
その結果、江東での孫権の自治支配は守られ、ついでに劉備も荊州南部に拠点を築きます。
こうして「魏、呉、蜀」の原型が出来上がるのです。
では、その戦い以前に孫権が曹操に降伏していたらどうなっていたでしょうか。
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曹操の目標は荊州侵略
もともと曹操は河北の袁紹を倒した後、荊州の平定を目指していました。
荊州の牧である劉表は袁紹と通じており、曹操とは長く対立しています。
曹操の次のターゲットというわけです。
しかし荊州は広く、全域を平定するには時間も兵力も必要になります。
そして水軍も必要になるのです。
曹操は鄴都において玄武池という人造湖を作り、水軍の鍛錬を繰り返します。
万全な状態で、曹操は荊州を攻めたのです。
このときちょうど荊州牧・劉表が病没します。
後継者には次子の劉琮がつき、戦わず曹操に降伏します。
うれしい誤算です。時も犠牲もかけずに荊州全域を曹操はあっさりと手に入れたのです。
兵力も増大し、経験豊かな荊州水軍を手に入れました。
残るは、東の揚州を支配する孫権、西の涼州を支配する馬超、
南の益州を支配する劉璋ということになります。
これらを成敗すれば曹操は天下を統一したことになるのです。
ついでに孫権を攻める
もともと孫権まで攻める予定ではありませんでしたから、準備が万全というわけではありません。
しかし荊州を得たために曹操軍の戦力、兵糧、武器などは圧倒的です。
ここまで来たついでに揚州の孫権を倒すという選択を曹操は選びました。
参謀の賈詡(かく)や程昱(ていいく)らは止めていますが、曹操は聞き入れません。
兵力差は、曹操軍が約40万に対して孫権軍が約10万です。
前線に出陣したのは曹操軍は20万、孫権軍の前線は周瑜が率いる3万といわれています。
ちなみに劉備軍も2千ほど強力したようです。
【奇想天外な夢の共演が実現 はじめての架空戦記】
降伏が主戦派を押し切る
百戦錬磨の曹操が大軍を有している時点で、こちらの勝ち目が薄いことは誰の目から見ても明らかです。
降伏、和議を求める者が孫権の臣下の大半を占めるようになります。
降伏派の第一人者は張昭でしょうか。
主戦派は魯粛、そして周瑜です。
これに同盟外交にために訪れていた諸葛亮孔明が加わり、
孫権を説得することになるのですが、史実では戦うことを決心します。
しかし降伏であってもおかしくない状況ではあるのです。
もしかしたら張昭が孫権を説得して降伏を決断させていた可能性があります。
孫権の降伏
荊州に続き、揚州まで戦わずに降伏したとなると、
今度は曹操は長江の上流を目指して進行したのではないでしょうか。
つまり益州攻めです。
軍を分けて長安方面から涼州の馬超も同時に攻めることができます。
いくら険阻な山岳地帯であっても劉璋には、荊州・揚州を吸収した曹操と対峙する力はないでしょう。
仮に益州に劉備たちが逃げ込んでいたとしても、
圧倒的な兵力の前に打開できなかったのではないでしょうか。
213年ごろに全土の平定は曹操により完成します。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
そうなのです。赤壁の戦いで曹操が負けたから、
まだ互角にちかい形で曹操VS孫権・劉備が成り立ったわけです。
そして三国志が誕生しました。
孫権が曹操に降っていたらもはや誰にも曹操は止められなかったことでしょう。
全土を平定したということになれば、曹操は皇帝の位の譲位を試みたかもしれません。
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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—