ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・教育改革」のコーナーです。
2020年の大学入試システムの変更にともない小・中・高校の教育も大きく変わってきています。ICTを取り入れているのはもはや当たり前の時代です。インターネットやタブレットを使いこなすだけではありません。知識をどう使い、どう表現するのか、集団で問題を解決する手法などが問われる世の中になってきています。「アクティブラーニング」というものですね。グローバルな舞台で活躍できる人材の育成はとてもたいへんだということです。
蜀の二代目皇帝・劉禅もこういった教育を受けていれば、もう少しまともな政治やリーダーとしての自覚ができたのでしょうか。
全部任せっきりのお飾り皇帝
劉禅といえば蜀の滅亡を早めた暗愚な皇帝として有名です。皇帝でありながら何かを決断したということがほとんど記録されていません。この乱世にあって、何もしていなかったのではないかとすら思ってしまいます。
初代皇帝の劉備が死去したのが223年。魏に降伏して滅亡したのが263年です。大国・魏の脅威を隣り合わせにしながら40年間も蜀を存続させたわけですから、誰かが強力なリーダーシップを発揮していたのは間違いありません。
ここで注目されるのが丞相である「諸葛亮孔明」の存在です。三国志演義では、成都に戻った諸葛亮孔明が劉禅の酒に溺れて肥えた体を見て、教育係の蒋琬や費禕を叱ったそうです。諸葛亮孔明が直接注意できないのであれば、蒋琬や費禕に厳しい教育などできようはずがありません。
そもそも諸葛亮孔明が何でもできてしまうので、政治面で劉禅がいる必要性がなかったというのが劉禅を堕落させてしまった原因だと思われます。劉禅は蜀漢の象徴的存在であり、実務においてまったく期待されていないお飾り皇帝だったのです。
戦場に出たことがない劉禅
日本でイメージすると豊臣秀吉の後継者である豊臣秀頼が似た感じかもしれません。大坂の陣で出陣すれば勝ち目があるにもかかわらず出陣できなかったという経緯があります。関白が戦争するというのは受け入れられなかったのかもしれません。
劉禅も出陣した記録がありません。同じような皇帝の身分でいくと、劉禅とほぼ同じ年の魏の明帝(曹叡)が諸葛亮孔明の北伐に対して長安まで親征しています。魏の皇帝ですら出陣しているのに、蜀は劉禅に対してかなり過保護です。
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諸葛亮孔明の教育に問題があるのか
そう考えると諸葛亮孔明の劉禅の教育に問題があったように感じざるを得ません。自分が死んだ後のことを考えると、劉禅が立派に自立するように育てるべきだったのです。諸葛亮孔明は確かに三国志の英雄であり、曹操や周瑜に匹敵する天才ですが、どうも教育だけは苦手だったように思えます。
嫡子の諸葛瞻も画家としての才能は発揮していますが、政治家としてリーダーシップを発揮したようには見えません。
蜀を衰退させる宦官・黄皓の台頭を許しています。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
結論として諸葛亮孔明が厳しく教育していれば劉禅はもっと立派な大人になっていたはず!というのが私の見解です。もっとも「立派な大人=立派な政治家」というわけでもなく、「立派な政治家=立派な皇帝」というわけでもありませんが・・・。
もしかしたら「過保護な劉禅」でなかったら蜀は40年間も存続できていなかったかもしれません。これはこれで蜀内のバランスをとるにはちょうどよかったかもしれないからです。
長坂の戦場で趙雲に命がけで救われたのは何だったんだー!って三国志ファンはどうしても思ってしまいますよね。でも無血開城を決断したのは立派なのかな・・・。皆さんはどうお考えですか。
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