【マイナー文官列伝】有名じゃないけど優れた才能を持った建安七子・王粲ってどんな人

2017年8月5日


 

 

建安七子(けんあんしちし)。

建安時代に登場した詩文学の中でも特に有名な七人を指します。

この中七人は全員かなりマイナーな人物ですが、

今回は建安七子のひとりからピックアップして

王粲(おうさん)をご紹介したいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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長安へ移住

 

王粲の父・王謙(おうけん)は王粲が幼い頃に亡くなってしまいます。

王粲の父親が亡くなった後、董卓が後漢王朝の政権を牛耳っていき、

自らの本拠地である涼州(りょうしゅう)に近い長安へ後漢王朝の皇帝と一緒に遷都。

王粲も洛陽を捨てて長安に移住することになります。

 

儒学者・蔡邕に認められる

 

王粲は長安に移住した後ある人物に認められます。

その人物は後漢王朝の末期の儒学者(じゅがくしゃ)である蔡邕(さいよう)です。

彼は王粲と会った時にすぐに「こやつには才能がある」と感じ、

「今度私の家に遊びに来なさい」と言って分かれます。

当時蔡邕の家には多くの客が毎日ひっきりなしに彼の元を訪れており、

家の中はいつも誰かしらいる状態でした。

そんなある日蔡邕の家に幼い王粲が遊びにやってきます。

蔡邕は王粲がやってくると知らされると急いで彼を迎えに行き家の中に招きます。

蔡邕の家を訪れていた客達は蔡邕自ら迎えに行く人物が、

どのような人物であるのか楽しみしておりましたが、

皆の前に現れたのが青白い顔をした子供であったのでびっくりします。

彼は皆へ「この子は必ず大人物になるとわしは思っている。

そこでこの家の中にある書物すべてを彼に上げたいと思っている」と言ったので、

客達はもう一度驚き唖然としてしまいます。

こうして蔡邕に認められた彼は蔡邕の家にあった作品を貰い受けることになるのですが、

董卓が呂布達の計画によって殺害されたことにより、

蔡邕も董卓の仲間だとみなされて殺害されてしまいます。

王粲は長安が戦乱に包まれることを予想してすぐに脱出して荊州へ逃れます。

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「君。貧弱そうだから」by劉表

 

王粲は長安の戦乱から逃れて荊州へ逃亡。

当時の荊州の主は劉表(りゅうひょう)で彼は早速劉表へ会いに行きます。

劉表は彼と会うと「君。随分顔色悪いし、貧弱そうな体してるけど大丈夫??」と聞かれます。

王粲は彼に「はい。大丈夫です。」と返答。

その後劉表は彼に二、三質問して王粲を採用しますが、

あまり要職につけることをしませんでした。

 

曹操に仕える

 

王粲は荊州であまり優遇されることなくダラダラと日を過ごしてきます。

しかし劉表が亡くなると状況が一変。

河北統一を果たした曹操軍が大軍で荊州へ南下してきます。

劉表の息子であった劉琮(りゅうそう)へ曹操に降伏するように進言した事がきっかけで、

彼は曹操に降伏。

王粲もこの時曹操に降伏して仕えることになります。

 

文才に優れた文官

 

王粲は曹操に仕えると侯の位を与えられることになります。

その後彼は曹操の息子である曹植と一緒に文学を通じて友人となり、

共に詩文を交換するほどの仲でした。

また詩や論など多くの著者を残しており歴史書を編集するほどの能力を持った人材でした。

さらに彼は魏の法律を新しく制定する際の会議では文官達の取りまとめ役をしており、

常に彼が主宰となって会議を行っていたそうです。

このように色々な才能を持っていた人物ですが、

病によって若いうちに亡くなってしまいその才能を惜しまれたそうです。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

王粲の息子は曹操が鄴(ぎょう)を離れている際に

勃発した魏諷(ぎふう)の反乱に参加したため処刑されてしまい、彼の家は断絶してしまいます。

曹操は魏諷の反乱によって王粲の家系が途絶えてしまったことを悲しみ

「俺がいれば王粲の息子を助けてやったのに」と言ってため息をついたそうです。

マイナー文官列伝・王粲をご紹介しました。

 

参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書3 今鷹真・井波律子著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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