三国志は後漢王朝・霊帝(れいてい)時代に起きた黄巾の乱がきっかけで、
中華全国が内乱状態になってしまい各地で群雄が割拠。
しかし霊帝(れいてい)よりも前に後漢王朝は腐敗しており、
いつ黄巾の乱のような大規模な反乱が起きてもおかしくない状態でした。
その原因を作ったのは梁冀(りょうき)と言う人物です。
この梁冀という人物は後漢王朝の最高権力者である皇帝を差し置いて、
やりたい放題やっておりました。
梁冀のやりたい放題は董卓(とうたく)を超えるほどだったそうです。
この梁冀のやりたい放題に激怒した皇帝と宦官は、
力を合わして梁冀と対立することに。
この対立のせいで後漢王朝は腐敗していくことになり、
三国志の原因となった黄巾の乱へとつながっていくことになるのです。
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この記事の目次
史上最高の指導者・劉秀:大豪族連合・後漢王朝を成立させる
前漢王朝が王莽(おうもう)のせいで滅亡してしまった後、
各地で農民達が反乱を起こしていきます。
チートリーダー劉秀(りゅうしゅう)は各地の豪族達を集めた後、
100万の王莽軍を撃破後農民達の最大反乱勢力であった赤眉の乱(せきびのらん)も鎮圧。
更に赤眉の乱の混乱に乗じて、
独立勢力を築いていた益州の公孫述(こうそんじゅつ)らを討伐して、
天下統一を達成します。
こうして中国を統一したチートリーダー劉秀は前漢王朝を再興させて、
後漢王朝を成立させます。
後漢王朝は劉秀が集めた各地の豪族達を基盤としていたため、
豪族連合体政権でした。
豪族達は娘を皇室関係者へ奥さんと嫁がせ後漢王朝の皇室と婚姻関係を結んで、
権力を強化したり高級官僚を輩出した事で貴族化しておりました。
このように豪族達が非常に力を持っていたのが後漢王朝の初期でした。
しかし劉秀や二代目皇帝明帝・三代目皇帝章帝など初期の後漢王朝では皇帝が、
しっかりと豪族の手綱を握っていたこともあり、豪族達も従順な姿勢で皇帝の権力に従っておりました。
だが後漢王朝中期になると豪族達が牙を皇帝に向けてくることになります。
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豪族・梁冀(りょうき)が権力を握る
※註:梁冀のイラストはパイプを加えていますが、喫煙の習慣は南米で生まれ
中国に入ってきたのは大航海時代の16世紀の事です。
飽くまでも演出ですので、混同しないようにね by kawauso編集長
梁冀は光武帝・劉秀の天下統一事業に協力をした梁統(りょうとう)を先祖とし、
父は大将軍の位にありました。
そんな梁冀ですが妹が、
順帝(じゅんてい)の奥さんとなり皇后へ取り立てられることになります。
その結果、梁冀や梁冀の父親で大将軍であった梁商(りょうしょう)は、
皇室と婚姻関係を持つことになり外戚となります。
しかし父・梁商は権力を持つことに不安を感じて、
外戚となって権力を振るうことができたにも関わらず辞退して身の保身を図ります。
だが息子の梁冀は外戚となるとトントン拍子に出世していき、
父・梁商が亡くなると大将軍の位を継ぐことになります。
こうして梁冀は父の位を引き継いで権力を握ることになるのです。
董卓を超える暴虐性
三国時代の董卓(とうたく)はかなりの暴虐な行動を起こして金持ちを殺害したり、
一族を後漢王朝の要職に就けたりと権力を振りかざしてやりたい放題やっておりました。
しかし梁冀は董卓を超える暴虐性を民衆や後漢王朝の皇帝・皇族、
文官達に見せつけるのです。
梁冀は権力を握ると罪を犯していない富裕商人の罪を仕立て上げて処刑し、
金品や土地を没収してしまいます。
更に梁冀は質帝(しつてい)が皇帝になると少し賢そうという理由で、
殺害してしまいます。
董卓も暴虐な人物でしたが皇帝を殺すようなことをしませんでした。
しかし梁冀は自分の権力が脅かされそうな危険性を感じると皇帝だろうが殺害し、
自分が操りやすい皇族を見つけて新しい皇帝として君臨させてしまいます。
こうして梁冀が就任させた新しい皇帝は桓帝と言われる人物です。
この桓帝が皇帝となる時、文官が猛反対しておりました。
だが梁冀は猛反対している人物の意見を封殺して皇帝に就任させてしまいます。
また桓帝即位には曹操の祖父で宦官であった曹騰(そうとう)が協力したことで、
すんなりと皇帝へ即位することができたそうです。
こうして新しい皇帝が君臨することになった後漢王朝。
梁冀はまだまだ強大な権力を振りかざして思うがままに振舞っておりました。
だが栄枯盛衰栄える者もいつかは衰退することになるのです・・・・。
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梁冀が亡くなると梁氏が一掃されるが・・・・
桓帝は成人になっても梁冀の操り人形に成り果てており、
梁冀のやりたい放題の政治が改まることはありませんでした。
しかし梁冀を支持していた梁皇后が亡くなると桓帝は反撃に出ます。
桓帝は宦官達を使って梁冀の屋敷を囲んで梁冀を次第に追い込むと
梁冀によって要職についていた梁冀一派をすべて殺害。
こうして梁冀や梁氏一族は朝廷から居なくなることになります。
だが梁冀一派に関係した人数は多く、梁冀一派を一掃したせいで朝廷に在籍していた
文官達が全ていなくなってしまうほどの多さだったそうです。
こうして外戚・梁氏を打倒して後漢王朝はクリーンになるわけではありませんでした。
外戚討伐に功績を上げた宦官達は皇帝の側近だったこともあり、
梁氏の代わりに権力を握ることになるのです。
宦官は皇帝の側近である事を利用して権力を乱用。
更に宦官は民衆へ重い税をかけて税金を回収したり、宦官の一族を要職へ付けていくことになり、
梁冀とあまり変わらない傍若無人な態度を取っていくことになります。
宦官のやりたい放題に激怒した知識人達
宦官は権力を振りかざしてやりたい放題やりますが外戚も黙っていませんでした。
外戚は宦官へ反撃をして権力を取り戻そうと必死になっておりました。
こうして後漢王朝は宦官vs外戚の戦いが繰り広げられていくことになりますが、
この両勢力の争いに激怒した人々がおりました。
その人々は後漢王朝を支えていた中小の豪族出身の知識人層達でした。
中小出身の知識人層達は宦官や外戚のように一族出身者ではなく、
しっかりとした学問を積んで官僚になった人々で宦官と外戚の争いを批判。
こうして中小豪族から官僚になった知識人層の人々を「清流」と呼ばれることになり、
宦官や外戚を「濁流」と呼ばれることになります。
清流派の人々は宦官や外戚を批判運動をして、
朝廷から「濁流派」の宦官や外戚を追い出そうとします。
しかしこの運動は宦官が「『清流派』知識人層が徒党を組んでいて危険だ」という罪から、
片っ端から清流派知識人層を逮捕していきます。
こうして宦官は自らの権力を脅かす勢力を一層したことによって、
再びやりたい放題権力を振るっていくことになります。
ついでにこの上記の大弾圧を党錮の禁と言われる歴史的な事件として、
刻まれることになります。
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三国志ライター黒田レンの独り言
この宦官と外戚、そして清流派知識人層達の争いは、
後漢王朝の末期まで続くことになります。
後漢王朝の霊帝が即位すると外戚で清流派だった董氏は
宦官を一掃して政治をクリーンな時代に戻そうと考えます。
そして董氏は清流派の有名人であった陳蕃(ちんぱん)と手を組んで宦官一掃作戦を開始。
しかしこの作戦は宦官達にバレており、
清流派が行動を起こす前に宦官達が行動を開始することに。
その結果、清流派の外戚・董氏や陳蕃は処刑されてしまいます。
更に宦官一掃作戦に関与した可能性のある清流派知識人層達も処罰対象となってしまい、
自宅に謹慎させられたり処刑されてしまいます。
宦官達は清流派が考えた宦官一掃作戦を失敗に終わらせたことにより、
再び権力を乱用していくことになります。
そのため民衆達は重い税に耐え切れなくなり、
霊帝の末期に黄巾の乱として反乱を起こすことになるのです。
もし梁冀が調子に乗って権力を乱用して蓄財などをせず、
しっかりとした政治を行っていれば後漢王朝末期にあれほど国内が荒れることもなく、
三国志が発生することもなかったと思われます。
このように考えると梁冀がいたからこそ三国志の群雄たちが
活躍する場所が与えられたと考えることが出来るのではないのでしょうか。
後世の私達が勝手に考えている事で、
当時の民衆達からしたらたまったものではないのでしょうけど・・・・。
参考文献 三省堂 三国志ハンドブック 陳舜臣・竹内良雄著など
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