ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・人材抜擢!」のコーナーです。
人の上に立って成功するリーダーは、「人を見抜く目」を持っているものです。
「将来性はどうなのか」
「口先だけでなく本物の力を持っているのか」
「信頼できるのか」などなど。
特に群雄割拠の戦国の世の中ではそういった目を持っていなければ
生き残ることすら難しかったのではないでしょうか。
誰を抜擢するのかは、その組織の成長や成功のカギを握っていると共に、
リーダーの器量を示しています。
今回は「魏延」を抜擢した「劉備」について考察してみましょう。
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この抜擢は凄い
日本でもこの人材抜擢は凄いというケースはいくつもありますね。
氏素性もはっきりしないような木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)を抜擢した織田信長が良い例でしょう。
薩摩藩の下級武士だった西郷隆盛を抜擢した藩主・島津斉彬も見事でした。
織田信長は豊臣秀吉の活躍もあり、天下統一目前まで勢力を拡大しましたし、
島津斉彬は病没していましたが、西郷隆盛が属する薩摩藩は倒幕に成功して明治政府を樹立しています。
驚くべき大逆転劇を演じる勢力のリーダーたちは、卓越した目を持っており、
さらに、他の家臣の反対を押し切ってでも自分の目を信じてその人材抜擢を敢行しています。
魏延の抜擢
蜀の猛将・魏延が劉備に抜擢され、周囲を驚かせたのは219年のことです。
三国志ファンにとってはまさに「波乱の219年」です。
1月には魏の名将・夏侯淵が黄忠に討たれました。
7月には劉備が漢中王に即位しています。9月には鄴の都で魏風が反乱を画策し失敗。
12月には関羽が孫権に背後を突かれて捕らえられて処刑されました。
そして孫権は曹操に臣従したのです。
この「波乱の219年」に魏延は、「漢中太守」に抜擢されています。
諸葛亮との相性を考えると、諸葛亮が魏延を重用するように進言したとは考えられません。
「三国志演義」ではむしろ魏延の「反骨の相」を見て、諸葛亮は処刑しようとしています。
そこで取り成ししたのが劉備という設定です。
漢中太守に魏延を当てたのは、やはり劉備の考えだったのではないでしょうか。
【北伐の真実に迫る】
張飛を押しのけて漢中太守となる
なぜ魏延が漢中太守に任ぜられたときに周囲は驚いたのでしょうか。
それは劉備の領土の重要拠点が漢中だったからです。
同様に重要拠点だった荊州の江陵は古参の関羽に任せています。
周囲は当然のように漢中を守るのは同じ兄弟分である張飛だと考えていたのです。
実際に漢中攻略に張飛は参加しています。
もちろん張飛には部下を鞭打つというパワハラ癖がありましたから、
適任とはいえませんが、長く苦楽を共にしてきた義兄弟です。
魏延は劉備が荊州に移ってから配下に加わっていますので、張飛と比較するとはるかに新参者です。
益州侵攻で功績をあげたとはいえ、まだまだ周囲の評価は低かったはずです。
そんな中で劉備は張飛ではなく魏延を漢中太守に抜擢しています。
恐らく魏延を最も高く評価していたのが主君である劉備だったということではないでしょうか。
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三国志ライターろひもと理穂のまとめ
「三国志演義」では劉表配下の魏延は反乱を起こした後に劉備陣営に加わっていますが、
「三国志正史」の記載によると、どこかの勢力を裏切って劉備に仕えたわけではないようです。
どうも魏延というと「裏切り者」のイメージが強いですが、
冷静に考えてみると、生涯を蜀漢のために尽くした忠臣なのかもしれません。
劉備亡き後の蜀軍を支えたのは諸葛亮と魏延であることは間違いないでしょう。
諸葛亮に対して「三顧の礼」で迎えた劉備。
同じくらいの期待を若き猛将に寄せていたのかもしれませんね。
自分の目を信じた劉備の抜擢は、決して間違ってはいなかったのではないでしょうか。
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