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西郷隆盛は本当にやっせんぼだったの?

2018年1月12日


 

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2018年のNHK大河ドラマ、西郷どん、第一回のタイトルはやっせんぼでした。ここでは、幼少期の西郷どんが出てきましたが、では、やっせんぼとは、どういう意味なのでしょうか?そして、やっせんぼの効果的な使い方とはどういうものでしょう。今回のはじ三では、やっせんぼについて解説しますよ。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西郷どん第1回タイトルの「やっせんぼ」の意味と使い方は?

 

では、用語辞典で鹿児島弁のやっせんぼを調べてみましょう。すると、やっせん=役をしない、ぼ=坊主という意味がありました。つまり、やっせんぼには、役立たず、臆病者、弱虫、決断力なしというネガティブな意味が含まれていたのです。

 

使い方としては、木に登れないとか、河に飛び込めないとか、怖がってしり込みするような臆病な子供に向かって全員で「やっせんぼ」と囃したそうです。言葉だけを見ると、やせっぽちに似ているのでガリガリに痩せているのかな?等と思っていましたが、全然違うんですね。

 

 

本当に西郷隆盛はやっせんぼだったのか?

 

では、西郷どんは幼少の頃に、本当にやっせんぼだったのでしょうか?

 

史実では、それは間違いである事が分かります。西郷どんは、子供の頃は体格が大きいだけで口数も少ないので目立たず、大きな目が特徴であだ名が「大目玉」だったそうです。

 

しかし、成長すると存在感が増し自然に他の子ども達のリーダー格になります。それに、いざとなると勇気もあり、13歳の頃、妙円寺詣で、別の方限(ほうぎり:地区)の少年に逆恨みされ、刀で斬りかかられたの体術でいなして、川に放り投げてしまったという逸話もあります。

 

ただ、西郷どんは、この時に右肘を斬られて傷を負い、そのせいで腕が曲がらなくなり、剣で身を立てる道を諦めました。それからは、西郷どんは、人と言い争う事もしなくなり、益々、その人格が磨かれていったという事です。そういう事もありましたが、西郷どんは幼少時から有能であり、決してやっせんぼうではなかったのです。

 

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西郷隆盛がいなかったら日本はどうなった?

 

西郷どんは、その見た目の大きさや威圧感と違い、正義感が強い人であり、同時に弱い者に優しい人でした。そんな西郷どんは、人が大勢死ぬ戦争を憎んでいましたし、やむを得ない時以外には、武力を行使する事も嫌がっていました。

 

例えば朝廷に弓を引いて賊軍になった長州藩が禁門の変で幕府と薩摩と会津の連合軍に敗れて京都から追い出され、さらに国元でも外国艦隊の砲撃を受けて壊滅寸前になった時でも、西郷どんは、責任者を切腹させて、攘夷派の公卿五人を長州藩から移せば、それで良いとなるように、幕府に働きかけていますし、

 

有名な江戸無血開城の時には、幕府側の代表である友人の勝海舟の言葉を信じ将軍、徳川慶喜の助命と、徳川方の自主的な武装解除を受け入れて江戸が火の海になるのを阻止しています。この時は、薩摩や長州は、徳川慶喜の首を取らないと戦争は終わらないと息巻いていて、それを説得するのは大げさではなく殺される恐れさえある危険な事でしたが、西郷さんは一人で引き受け、ついに説得しました。

 

もし、官軍の総大将が西郷どんじゃなかったら、、薩摩や長州は、どこまでも慶喜の首を要求し、それを拒む幕府軍と江戸で衝突が起こり、万単位で人が死んだかも知れません。そうならなかったのは、やはり、江戸の市民を戦争に巻き込んではいけないという西郷どんの優しさと戦争嫌いではないでしょうか?

 

西郷どん

 

 

西郷どん解説者 kawausoの独り言

 

以上、西郷どんは、やっせんぼだったのか?について解説しました。西郷どんは、非常に同情しやすい性格であり、自分も貧しいのに貧しい農民に自分の給料を与えて生活に困ったり、明治政府に入り、大元帥という軍人の頂点になってからも、坂道で難儀をしている老人の荷車をいかめしい軍服を着たままで押してあげたりしています。皆、びっくりして、ひれ伏しますが、西郷どんは何気ない感じで少しも気にする様子はありませんでした。

 

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はじめての明治時代

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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