2013年のNHK大河ドラマに、八重の桜がありました。このドラマの中では、西郷どんは、会津を攻撃する薩長軍のボスとして描かれます。つまり、会津を主役にすると、西郷どんと薩摩は敵役になってしまうのです。では、どうして、薩摩藩と会津藩は敵同士になってしまったのでしょうか?
そして、現在、鹿児島県と福島県の人の関係はどうなっているのでしょう。
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この記事の目次
会津藩と薩摩藩はどこにあるの?
では、会津藩と薩摩藩の位置について解説しましょう。まず、薩摩藩は、現在の鹿児島県で、日本列島本州の南端にあります。一番南なので、覚えるのも難しくないと思います。一方の会津は、今の福島県の一部にあたります。
福島というと、東北で寒いというイメージがありますが、実際は太平洋側に面して東北でも一番南にあり、東京からも200キロ圏内ですから、単純に距離でいえば、鹿児島県より、ずっと東京に近いです。しかし、横に広いエリアなので、浜通り地方のように気候が穏やかな土地もある反面で、会津地方のような日本有数の豪雪地帯もあります。
鹿児島県が戦国末期から、ずーっと島津氏の支配で、県になっても、薩摩藩=鹿児島県と一枚岩であるのに対し福島県は会津藩ばかりでなく幾つかの小藩が集まって構成された寄せ集め所帯であり、福島県=会津藩ではありません。ちなみに、もう一つ、会津藩と深い因縁のある長州藩、現在の山口県は、中国地方の端で、日本最西端の県です。
会津藩が薩摩藩を嫌っている・恨んでいる理由
元々、会津藩と薩摩藩は、特に接点がありませんでした。つまり、好きでもなければ嫌いでもなかったのです。二つの藩をくっつけたのは、過激な攘夷論を爆発させていた長州藩でした。1863年頃の長州藩は、大量の人材を京都に送り込み、天皇を含め、京都の公卿を味方につけていて、外国を追い払い、不平等条約を破棄せよと、公然と幕府に反旗を翻していました。
当時の薩摩藩は、親幕府の島津久光の支配下にあり、そんな長州藩を苦々しく思っていたのです。しかし、単体では長州藩に対抗するのは無理なので、味方を必要としており、そこで選ばれたのが会津藩でした。
こちらの会津藩は、その藩祖を保科正之と言い、二代将軍の徳川秀忠の4男で庶子でした。つまり、将軍になった徳川家光の異母兄弟なのですが、自分の兄弟たちに冷酷であった家光は、この保科正之だけはとても可愛がりました。それは、正之が大変に謙虚で誠実な人柄で、何より家光に忠誠を誓ったからです。この保科正之は、23万石の会津藩の当主に取り立てられます。正之は将軍家光に強い恩義を感じ、掟十五か条を定めて、
「藩主は将軍家に絶対服従、破るようなら家臣はそれに従うな」と書き記したのです。この掟は代々守られ、幕末の会津藩主、松平容保は財政がひっ迫しているのにも関わらず、京都守護職を引き受け、最後まで幕府を支え続ける事になります。
こうして、徳川幕府絶対の会津藩と薩摩藩の利害は一致し、1863年8月18日に長州藩兵を京都御所の警備から外して追放しました。これを八・一八の政変と言います。ですが、盲目的に幕府への忠誠を誓う会津藩に対して、薩摩藩は時代を読んでおり狡猾でした。そして1866年には、幕府を見限って、一度は追放した長州藩と薩長同盟を結び、今度は幕府側についた会津を攻撃したのです。
もちろん、会津は、薩摩の変心に激怒して嫌いました。これが会津が薩摩を嫌いはじめた最初です。
戊辰戦争で会津市民への略奪が悲惨だった?
会津藩は、鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍の主力として桑名藩と共に薩長軍と戦う事になります。さらに、将軍、徳川慶喜が謝罪恭順して、江戸幕府が解体した後も、新政府軍の命令を拒否して戦う羽目になりました。その大きな原因は、尊攘派を容赦なく取り締まった新選(しんせん)組が、京都守護職、松平容保の配下だったからです。また、禁門の変では長州は、薩摩藩と共同した会津藩にも攻撃されたので、その恨みも重なっていました。
しかし、禁門の変で、一番、長州藩士をひどい目に合わせた薩摩藩とは、長州は手を組んでいるのですから不思議なものです。ともかく、慶喜がさっさと降伏して、恨みの矛先を失った新政府軍、その中でも取り分け、新選組や会津に恨みがある長州藩が、松平容保を目の敵にし、その征伐を飽くまで強行します。東北諸藩は、会津藩の立場に同情的で、新政府軍に反抗して、奥羽越列藩同盟を組織して戊辰戦争を戦う事になります。
母成峠で幕府軍を破った新政府軍は、板垣退助、伊地知正治を司令官として、会津藩に攻撃を開始、1868年10月8日に会津若松城下で市街戦が発生して多くの死者が出る事になります。戦いは籠城戦に突入し、若松城には、武士ばかりではなくその家族までが籠城して戦いますが、10月8日から11月6日まで約一か月抵抗した後に降伏しました。この戦争で、松平容保は、軍資金不足を解消する為に新政府への降伏を進言する、西郷頼母の進言を退け城下の町人から財産を強制的に差し出させて戦費としたうえ各地から戦乱を逃れてきた町人や農民にも武器を渡し不足した兵力を補おうとしたので、脱走兵や市民の死傷者が出ています。
また、新政府軍、会津軍、両者とも、農民を荷役や物資補給にほぼ無料でこき使い、略奪も横行したので薩摩藩もさることながら、会津藩も領民に恨まれる事になります。
このように、被害を被った市民は、会津藩も新政府軍も恨んだのですが戦争に敗北した会津藩士の恨みは、自分達を攻撃した薩摩藩や、長州藩に向かう事になりました。
西南戦争で薩摩に仕返しした会津
会津藩は藩主、松平容保が助命されるなど、最低限の面目は保ちますが、その後も領地を没収され、不毛の土地に移され貧乏のどん底を味わうなど敗戦国としての差別を味わう事になります。これにより、薩摩藩、そして長州藩への恨みは年々強化されていき、1877年、西南戦争が起こると、元会津藩士で警察官になった人々が政府軍として従軍し西郷軍との戦いに挑む事になりました。
旧会津藩士は、戊辰戦争の仇を討つと意気込み、剣客ばかりで組織された警視庁抜刀隊に所属して、剣技で薩摩隼人に立ち向かい、大いに手柄を立てて田原坂の戦いを政府軍の勝利に導きます。
ただ誤解されがちですが、警視庁抜刀隊は、ほとんどは旧、薩摩藩士族で構成され、会津藩士は遊軍として側面支援を行い、メインではありません。後に陸軍大将にまでなった、旧会津藩士の柴五郎は、薩摩を憎む気持ち強く西南戦争で戦死した、西郷隆盛と翌年に紀尾井坂の変で暗殺された大久保利通を併せ「連中が死んだのは自業自得だ、俺は断じて喜ぶぞ」と日記に書きました。このように、会津人の薩摩や長州、新政府軍への恨みは深かったのです。
会津藩と薩摩藩の関係性を解説したkawausoの独り言
会津藩が刀折れ、矢が尽きて、新政府軍に降してから150年が経過しました。その間に、交通の便は加速度的に進歩して、人の往来は頻繁になり一年間に世界では数十億人が飛行機で移動するようになりました。現在では、戊辰戦争の因縁を気にして、鹿児島県の人を恨んでいる福島県の人は、相当な年配の人か歴史好きを除いてはいません。両県が、かつて敵対していた事さえ知らない人が大半です。公式に鹿児島県が謝罪したとか、福島県がそれを受け入れたという記事はありませんが、事実上、会津と薩摩は和解したと言えます。
もちろん、歴史に触れる事では、気分を害する事はあるでしょうから戊辰戦争を語る時には、配慮は必要ですけどね。
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