三国志の時代は農民に至るまで腰に剣を佩いていた

2018年6月14日


 

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曹操

 

三国志の時代というと、武器を帯びているのは武官だけで

文官は筆だけを持っていたそのようなイメージがあるかと思います。

西晋時代に入ると、実際にそのような時代になるのですが、実は三国志の時代までは、

文武百官はおろか、農民に至るまでが腰に剣を()いていた尚武(しょうぶ)の時代でした。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも剣を帯びるのは礼記に記された貴族の嗜み

剣

 

中国では周の時代、貴族は皆、腰に剣を佩く義務付けられていました。

儒教のマナーブック礼記(らいき)には

「臣下は君主の剣と衣服を値踏みしてはならぬ」とあり、

当時、貴族は剣を腰に佩いていた事が分かります。

 

※ちなみに腰のベルトから紐を垂れ剣を吊るすのを佩くと言い、

腰帯に直接、刀を差すのを帯びると言います。

 

どんなに貧しき士でも剣だけは持っていた

韓信

 

春秋戦国時代の戦国四君、孟嘗君(もうしょうくん)に仕えていた食客の馮煖(ふうけん)は、

凄まじい貧乏でろくに持ち物もありませんでしたが、

一振りの剣だけは肌身離さず持っていました。

その剣は柄に何の装飾もなく、ただ荒縄を巻いただけです。

 

それ以外にも楚漢戦争の国士韓信(かんしん)は食うに困った無名時代でも

バカみたいに長い剣を背負い、その為に街の不良に因縁をつけられ、

股をくぐるという屈辱を受けています。

劉邦

 

項羽(こうう)を破り、天下を統一した劉邦(りゅうほう)も、旗揚げした時には、

一本の剣を引っ提げて立ち上がったと後年詩に詠みました。

どんなに貧しい士でも、身分によらず剣だけは佩いていた事が、

この辺りから察する事が出来ます。

 

呂布対項羽

 

文官に見える蕭何も剣を帯びていた

蕭何

 

劉邦が天下を取る為に、絶えず兵員と物資を送り続けた蕭何(しょうか)は、

張良(ちょうりょう)、韓信に並ぶ漢の三傑として、劉邦から特別待遇を受けますが

その特権には、剣を帯びて履を履いたまま宮殿に上がって良い

というものがありました。

 

このような特別待遇は、三国志でも散見されるものですが、

明らかに文官に見える蕭何も、ちゃんと剣を佩いていた事が分かります。

 

漢の時代の宮廷では百官全てが剣を佩いた

銅雀台

 

漢の時代になると、貴族でなくても剣を佩くのが士の嗜みになります。

例えば、独裁権力を握った前漢の霍光(かくこう)は身辺の安全を考えて、

自分に謁見する人間のボディーチェックを欠かさず必ず剣を外させました。

これも宮殿では剣を佩く事が原則になっていなければ成立しない決まりです。

 

また、前漢末の宣帝に仕えた宰相、魏相(ぎしょう)は上奏を行う士には必ず剣を佩かせ

持っていない時には、人に借りてでも佩かせました。

この時代には、士は剣を佩くのが義務になっていて、持っていないのが

オカシイという風潮になっていたようです。

 

農民まで剣を佩く状況が生まれた

黒山賊

 

前漢の時代に広く佩剣が浸透した結果、農民に至るまでが剣を持つ風潮になります。

例えば宣帝の時代に渤海太守になった龔遂(きょうすい)は、相次ぐ飢饉で野盗が蔓延(はびこ)るようになった

渤海(ぼっかい)では、農民までが刀剣を帯びている事を報告しています。

 

龔遂は、武力で反乱を抑えずに質素倹約を進めて、公平な政治をしたので、

多くの野盗や農民が武器を捨てましたが、一部の農民は頑なに剣を佩いていたので

「お前たちはどうして腰に牛を下げているのか?」と言い、

腰の剣を売って牛に替えるように勧め、ようやく武装解除を成し遂げました。

肉を分ける陳平

 

混乱が治まりつつあった渤海郡であっても、剣を牛に替えよという

代替案を出すまで剣を捨てない農民がいたのは、農民の中にも尚武の風があり

腰に武器を帯びない事に不安があった事を示していると言えます。

 

単純に武装蜂起するなら、矛や戟の方がリーチが長い分有利で扱いやすいのに

一定の修練が必要な剣や刀に農民が(こだわ)るのは、そこに尚武の気風が影響し

自分の身は自分で守るという自己防衛の精神があったと考えられます。

 

尚武の風潮が武芸者を産み出した

曹丕

 

一般の農民までが、剣を佩く風潮は後漢までも継続しました。

以前、はじめての三国志で書きましたが、曹丕(そうひ)は双剣の使い手であり、

河南の史阿(しあ)という師匠について、剣術を学んだ事を記録しています。

 

ちなみに、曹丕の師である史阿は桓帝の時代に虎賁だった王越(おうえつ)の弟子で

王越から剣技の全てを受け継いだ人であるようです。

今風に言えば、免許皆伝という事になるでしょう。

 

ここには剣技の伝承という発想が見られるので、当時、私塾のような形で

剣術道場があって免状の発行があった事を推測します。

三国志大学

 

当時、官吏は30万人はいたと考えられ、彼らの中で武芸に熱心なモノが

10人に1人いたとしても、需要は3万人、後漢の時代は私塾が盛んなので

同様に剣術道場もあり、剣を学びたい人々の需要を満たしていた

そんな風に考えてしまうのです。

   

三国志の時代を最後に剣は装飾品になる

王莽

 

しかし、上は君主から下は農民まで剣を帯びていたのは三国志の時代で終り

晋の時代からは、「使わないのに重い」という理由で刀身は木剣になります。

こうなると、後は坂道を転がるように剣はアクセサリになっていき、

士の腰を飾るだけの存在になり、そのまま六朝時代を迎えるのです。

 

以後、剣は復権する事なく、剣を佩く事をプライドとした時代は、

遠い過去の話になってしまったのでした。

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

酒の席で曹丕と剣術論議をして口論となり、サトウキビを剣に見立てて勝負して

ボロ負けした奮威将軍の鄧展(とうてん)は5種類の武器に通じている上に

素手で武器を取り上げる無刀取りまで出来ると豪語していました。

 

いかに戦の多い時代とはいえ、独力で5種の武器に通じ、ましてや、

敵の武器を素手で取り上げる事が出来るようになるでしょうか?

やはり若い頃に武芸を習い、そこに実戦経験を重ねて無刀の境地に達した

そう考えるのが自然だと思えます。

 

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