濡須口の戦いって何?どうして何度も戦争になるの

2018年10月10日


 

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黄河

 

濡須口(じゅしゅこう)の戦いとは、西暦212年から223年にかけ、断続的に三度行われた戦いです。

この戦いでは、曹操(そうそう)が40万もの大軍を動員したとも言われ、

実際には赤壁(せきへき)の戦いよりも規模の大きな戦争なのですが、劉備(りゅうび)が絡まないので、

三国志演義(さんごくしえんぎ)では大きな扱いになりませんでした。

そこで、10月のはじ三は、地味な大会戦濡須口の戦いを特集します。

 

関連記事:陸遜も参戦した合肥の戦い(第四次戦役 234年)を分かりやすく解説

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも濡須口ってどんな土地?

濡須口の地図

※注意、地図はかなりテキトーです

 

三度にわたり魏呉の間で争奪戦になった濡須(じゅしゅ)はどんな土地なのでしょうか?

濡須とは、長江(ちょうこう)淮河(わいが)の間にある合肥一帯に存在する巣湖(そうこ)から流れる支流で

古くは濡須水(じゅすすい)と呼ばれていました。

濡須口は、その濡須水が長江に注ぎ込む河口の事を意味しています。

濡須水の河口だから濡須口と言うわけですね。

 

巣湖の北西には合肥城(がっぴじょう)があり、その先に施水(しすい)があり魏の領地です。

つまり、この濡須口を魏に奪われると魏は巣湖を経由していつでも大船団を

長江の先にある建業(けんぎょう)まで進める事が出来、孫呉には大きな重圧になります。

そういう事があり、孫権は須湖に堤防を築いて流れを()き止めてしまい

魏の水軍が南下するのを阻止したりしています。

 

 

 

合肥に攻めるにも濡須口は大軍移動に便利

合肥に攻めるにも濡須口は大軍移動に便利

 

守備するばかりではなく、濡須口は長江を遡り合肥を攻撃するにも最適でした。

長江に大船団を浮かべて移動させれば数日で巣湖に船団が至るわけで

補給物資にしても船に積めば合肥城までは苦労しないで運べます。

 

孫権は、西暦230年に一度は東興堤(とうこうてい)を建造して巣湖を堰き止めますが、

後に淮南を攻める時に堤を破壊して、そこに船を浮かべ252年に諸葛恪(しょかつかく)

再び堤防を築くまでは、復活させませんでした。

 

それは、濡須口が攻めるにも守るにも重要な拠点である事を意味し

合肥を生涯に4度も攻めた孫権には必要不可欠だったのです。

 

呉の武将

 

長江は軍隊が渡れるポイントが限られる

長江は軍隊が渡れるポイントが限られる

 

軍隊の渡河(とか)には、大きなリスクが伴いました。

河と言っても長江は幅が数キロもあり、簡単に渡れるようなものではありません。

もし渡河の最中に敵軍が対岸で迎撃態勢を整えて進んできた場合には

渡河中の軍は、いく事も戻る事も出来ず立ち往生し全滅する事もありました。

 

ただ、長江にも途中に中州のような場所や水深が浅いポイントがあり、

そこは()と呼ばれて、軍隊が渡河する為の重要なポイントでした。

濡須口の付近にも中州(なかす)があり、ここは船ではなく歩兵が移動するには、

都合が良い渡河ポイントでした。

 

呉としては、この渡河ポイントを自軍が抑えて敵に渡さない為に

濡須口は硬く守る必要があったのです。

 

 

西暦212年に孫権が都を呉から建業に遷した

銅雀台

 

孫呉の都は、変遷(へんせん)を繰り返しています。

最初は呉であったのが長江に沿っていて物流に便利である秣稜(まつりょう)に根拠地を(うつ)

ここを建業(けんぎょう)と改名しています。

西暦212年は第一次濡須口の戦いの年であり、曹操が長江の付近に

首都機能を遷したので、ここを奪取しようと考えたのでしょう。

 

ただ、孫権は首都機能を遷しただけで、

実際には荊州、交州、揚州を束ねるのに便利な武昌(ぶしょう)に滞在しています。

その後、西暦229年に孫権が帝号を名乗ると正式に建業を首都にします。

この時孫権は、防戦の意図を固めたのか濡須口に繋がる巣湖の端を

堤防で堰き止めていました。

 

これは、呉からの船団を長江から遡らせないという意志表示になり

それを受けて濡須口の戦いは起こらなくなります。

しかし、その後情勢の変化で孫権は東興(とうこう)の堤防を壊したので

以後は再び濡須口周辺で戦いが起きるようになりました。

   

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

まとめてみると、濡須口が度々、大軍がぶつかる戦場になったのは、

魏の重要拠点である合肥があり、そこから建業までは僅かに150キロしかなく

長江に流れ込む支流である濡須口が魏軍に奪われると、

建業が大船団に包囲されてしまう恐れがあるという事になります。

巣湖やその支流を利用し船を使えば、軍隊も物流も飛躍的に効率的になるので

曹操も孫権も濡須口をなんとか確保しようと躍起になったのです。

 

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赤壁の戦い

 
 
 

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