象さんが最初に日本に来たのはいつ?【はじ三ヒストリア】


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現在ではパンダに人気№1を奪われていますが、動物園の人気者と言えば象でした。

そりゃあ、ライオンや虎もカッコいいですが、近くに寄って餌をあげたり触れたりは絶対に出来ません。

その点、象さんは気性が穏やかで人に懐き、大きな鼻で器用に食事をしたり、人を背中に乗せて移動し高い視点を楽しむ事が出来ます。

象さんほどにサービス満点な動物はいないと言えるでしょう。

ところで、そんな象、いつ頃日本にやってきたのでしょうか?

 

今回のはじ三ヒストリアは、11月14日午後10時25分放送のNHK歴史秘話ヒストリア

「将軍吉宗のわがまま!?江戸1300キロ象の旅」を先取りして象と日本人の出会いを解説します。

 

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象が初めて日本に来たのは室町時代

足利義満

 

日本に初めて象が来日したのは、西暦1408年の7月15日、旧歴では応永15年6月22日だそうです。

その頃、日本では足利義満(あしかがよしみつ)が死去し、室町幕府4代将軍として足利義持(あしかがよしもち)が就任した頃でした。

東南アジアから、孔雀やアラビア馬、オウムなどを積んで日本に挨拶に来た南蛮船が、近海で遭難して若狭国(今の福井県)に漂着。

この船に乗っていたのが象だったのです。

南蛮船と言いましたが、スペインやポルトガルではなく、マレーシアの亜列進卿(あらじんきょう)の所有物だったようです。

マラッカ王国辺りから来た船かも知れません。

ここで象は日本の土地を初めて踏み、幸い京都に近かった事から、陸路を進んでいき、将軍足利義持に献上されたのだそうです。

途中の道中の記録は残っていませんが、象が歩いてくるのを見た室町時代の人々は、さぞかしビックリした事でしょうね。

 


 

可哀想な室町象の数奇な運命

 

ところが、遠路遥々(えんろはるばる)日本に来た、この室町の象さんの運命は悲しいものでした。

足利義持は、象を二年後に李氏朝鮮(りしちょうせん)に贈物として与えてしまったのです。

これは、李氏朝鮮からもたらされた大蔵経(だいぞうきょう)のお礼だと考えられています。

しかし、象は大喰らいで、大量の食糧を食べます。

日々、豆を4から5斗食べたそうで、その食費で李氏朝鮮の王様を困らせたとか・・

さらに環境の変化でストレスを抱えたのか、象は暴れて人間を踏み殺してしまい、危険な動物という事で離れ小島に隔離され、

そこで病死したのだそうです。

人間の都合で故郷から数千キロを連れて来られ、最後は仲間もいない寂しい島で一生を終えてしまったなんて、悲しいですね。

 

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戦国時代にも3度やってきた象

織田信長

 

室町象が去ってから、170年後、1574年、明の船が大友宗麟(おおともそうりん)に献上する象を積んで博多に上陸します。

さらに20年後、1597年にはマニラ総督から豊臣秀吉(とよとみひでよし)へ宛てて、5年後には徳川家康(とくがわいえやす)にベトナムから象が献上されました。

大きくて見栄えがする象は贈物として最適と思われていたようで、今のパンダのような扱いですね。

ただ、戦国時代に贈られた3頭の象については、記録がほとんどなく、その後どんな運命をたどったのか不明です。


 

もっとも有名な徳川吉宗が招いた象

画像:徳川吉宗Wikipedia

 

日本には歴史上都合7回、象がやってきましたが、一番有名なのは1728年にやってきた享保(きょうほう)の象です。

この象さんは、これまでと違い、8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)が中国の貿易商に発注しました。

しかも、吉宗は象を日本で殖やすつもりだったのかオスとメスのつがいを発注しています。

さて、中国商人が調達した二頭の象は無事に長崎に到着、ところがメス象は環境の変化についていけず上陸してから3か月では死んでしまったそうです。

しかし、オス象の方は元気で、ベトナム人の調教師と中国人の通訳に伴われ長崎から陸路で江戸に向かいました。

 

本当は、海路江戸に向かう予定だったようですが、当時の日本は巨船の建造を禁止していて、象を載せられる船がありませんでした。

そこでやむなく、陸路で数か月かけて、象さんの珍道中が始まるのですが、どうせ長崎についたのだから是非、天皇陛下に見てもらおうという話にな

り、急遽(きゅうきょ)、一行は京都を目指します。

ただ、当時、天皇に謁見するには、相応の官位が必要でした、そこで幕府は急遽朝廷に官位を求め、享保の象さんには、

従四位広南白象(じゅうよんいこうなんはくぞう)の位階が贈られます。

どうやら、この官位、武士では10万石以上の譜代や外様大名にしか許されない官位のようです。

 

こうして御所に入った象さんは、行儀正しく膝を折って中御門天皇(なかみかどてんのう)にご挨拶(あいさつ)、美術品や書物でしか知らない象を見た天皇はいたく感激されたようで

 

「時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ」

と御製を詠んでいます。


  

 

 

享保の象さんは江戸で大フィーバーに

 

京都を後にした象さんは、東海道を東に進み5月25日に江戸に入ります。

御所でお披露目されたのが、4月28日なので、一か月ほどもかかりました。

幕府としても、天皇にお目通りが叶い、従四位を与えられた象に怪我があってはならぬと象が通過する街道は怪我をしないように

850人の人足を動員して整備させ、河を渡る時には、30隻以上の船を調達して艀を造るなど非常に神経を使いました。

 

こうして5月25日、象さんは江戸の浜離宮に到着、2日後の27日には将軍吉宗の上覧(じょうらん)を受けます。

その後、象は中野に造られた象舎で源助、平右衛門、弥兵衛という3人の町人に飼育される事になります。

物見高い江戸っ子たちは、象の到着に大フィーバー大勢が象舎に押しかけました。

庶民ばかりではなく、文化人、知識人も象には興味津々、幕府の御用絵師、狩野古信(かのうよしのぶ)が絵を描きそれに続いて大量の出版物が発行されました。

 

人気者の宿命?寂しい晩年を生きた享保象

 

享保象は、官位を受け、将軍の上覧を受けた事で大事に飼われていましたが、やはりここでも餌代がバカにならない事に

幕府は頭を抱える事になります。

時は享保の改革で質素倹約の真っ最中、その号令をかけている幕府が大飯喰らいの象を飼うのは庶民から見ると不公平の極みに見えるわけです。

しかも、慣れない土地での生活や、象を知らない日本人の飼育には問題も多かったのでしょう。

象はストレスをため込んで凶暴化し、ある時、飼育員の一人を殺してしまいます。

これで、幕府はとても飼い切れないと匙を投げ、1741年、世話役だった源助に象を払い下げてしまったのです。

 

源助は象の食い扶持を産みだし、また一儲けする目的もあって、様々な商売を始めます。

拝観料を取って象を見物する場所を造り、饅頭などを売るという見世物小屋商売や象の涙や糞を漢方薬にするなどしていたようです。

 

実は象は、普賢菩薩(ふげんぼさつ)の乗り物として、昔から仏教に縁が深い動物でした。

象が福をもたらすという考えもあり、象人気は衰えなかったのです。

 

ですが、長年、異郷の地で沢山の人間に見られるという生活は、ひとりぼっちの象には過酷で耐えられない毎日でした。

1742年、象は病気になり、そのまま回復することなく死んでしまったのです。

 

kawauso編集長の独り言

 

死んでしまった象は解体され、毛皮は幕府に牙あと鼻と骨は源助の持ち物とされ、その後に骨は中野宝仙寺でさらに見世物になったそうです。

商魂たくましいというか、アコギというか・・

でも源助にしても、大喰らいの象を飼うのですから、背に腹は代えられない事情があったのかも知れませんね。

 

今回のはじ三ヒストリアは、11月14日午後10時25分放送のNHK歴史秘話ヒストリア

「将軍吉宗のわがまま!?江戸1300キロ象の旅」を先取りして象と日本人の出会いを解説しました。

この記事を踏まえて番組を見れば、より楽しめるかも知れませんよ。

 

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