江東の小覇王として孫呉の礎を築いた孫策。
そして孫策の親友として知られる周瑜。
二人の結びつきの強さは断金の交わりとしても知られる程、特別な関係でした。
しかしどうして二人の関係はそれほど特別だったのでしょうか。
そこには○○の秘密があったのです。
さて今回の○○には何が入るのでしょうか。
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今回の○○はこれだ!!
黒田レンの○○シリーズ!!
これは黒田レンがタイトルに○○を入れている記事からは始まったシリーズですが、今回の○○にはいったい何が入るのでしょうか。
それは血のつながりがあったからです。
え!?孫策と周瑜には血のつながりが本当にあったのでしょうか!?
「江表伝」に記載されている事実!!
正史三国志周瑜伝に二人には血のつながりがあるとの記載があります。
孫策は江東をあらかた制圧した後、親友である周瑜に豪壮な家を与え、いっぱい贈り物を送って、
その贈り物の多さは孫呉の臣下の中でも類を見ないほどだったそうです。
更に孫策は周瑜に書状を与えた時「周瑜は英才であり、俺とは血のつながりのある幼なじみだ!!」と記載してあり、二人が血縁関係にあったことを匂わせているのです!!
孫策が周瑜に与えた書状は江表伝にあり以下の内容です
周公瑾は英儁異才であり、私とは元服以前からの交流で
骨肉を分かつ関係である。
前に丹楊にあった頃、軍糧及び兵船を発して大事を遂げ
その徳を論じ功績を報いたが、周瑜の功に報いるに
これでは足りなかったので、さらに報いるのである
黒田レンは、この骨肉を分つという部分を血縁と
考えているようです。
単純に考えると、大喬と小喬の姉妹を妻にしているから
骨肉であると考えがちですが、この書状が出たのは、
皖を攻略して大喬・小喬を得る前のようです。
じゃあ、骨肉とは何を意味するのか、大袈裟にそう言って
リップサービスをしただけなのか?
異論・反論のある方メッセージを下さい。
血縁関係を匂わせる周瑜の行動
孫策と周瑜の関係性は確かに血縁関係があってもおかしくない結びつきの強さがあります。
更に周瑜の行動が孫策との血縁関係を匂わせるある事をしているのです。
孫策は周瑜から周家が持っていた大きな屋敷を与えられています。
いくら周瑜が孫策の親友だったとしても、家をあげるなんてありえないと思いませんか。
でも孫策と周瑜が血縁関係にあると仮定するのであれば、周瑜が血縁関係にある孫策へ家をあげても別に不自然ではありません。
また周瑜は孫策へ家をあげた後、孫策の母親にいつもご機嫌伺いをしていたそうです。
この周瑜の行動も普通の親友であれば、こんなことをしないはずですが、血縁関係にあれば、周瑜の行動にも説明がつくと思いませんか。
呉夫人の言葉
更にもう一つ孫策と周瑜に血縁関係があったことを匂わせる記載があります。
これもまた正史三国志に記載している記述なのですが、孫権が孫策の死後、跡を継ぎます。
その後孫権はあることで孫権の母・呉夫人の所に意見を聞くため、周瑜一人だけを連れて一緒に向かいます。
その席で周瑜は呉夫人の前で孫権に色々と意見を述べます。
その後呉夫人は孫権へ「周瑜殿の意見が一番まっとうな意見だと思いますよ。なんせ策と同い年で私はわが子のように思っていますから」と述べています。
普通に考えれば呉夫人は周瑜が自分の子のように思っていると考えるのがベストでしょう。
しかし上記でも記しましたが、周瑜が孫策に施した数々の行いや孫策が周瑜に対して特別な扱いした出来事を考えれば、呉夫人の「わが子のようにおもっていますから」の言葉も素直にそのまま受け取っても別に何ら不思議ではありません。
果たして呉夫人が孫権に述べた言葉どういった意味を含んでいたのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
孫堅の家系図には周瑜の名前が一切入っていない為、普通に考えれば周瑜が孫家の親戚である可能性は少ないと思われます。
しかし孫家は元々役人を行っていた家柄で、周家と関係があったのかもしれません。
またもしかしたら家系図に記載されていない所で、孫家と周家が後漢王朝中期のどこかで交わるような事があれば、
周瑜と孫策にも血のつながりがあってもおかしくないと思いませんか。
三国志の時代はまだ全貌が解明されたわけではないので、確定的な事がいえる事柄と言えない事柄あり、
孫策と周瑜の血縁関係がある可能性もゼロだと断定することはできないでしょう。
■参考文献 正史三国志呉書など
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