断金の交わりとは?二人の絆はとても固い!孫策と周瑜の関係【断金之交】


 

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孫策と孫権

 

孫策(そんさく)はのちに呉の皇帝となる孫権(そんけん)の兄で、周瑜(しゅうゆ)は「赤壁(せきへき)の戦い」などで活躍した呉の名将です。その孫策と周瑜はとても固い絆で結ばれ、その二人の関係は「断金(だんきん)(まじわり)」とも言われました。

 

周瑜と孫策

 

今回の記事ではそんな孫策と周瑜の関係性、そしてそれを示す「断金の交」の意味についても探っていきます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孫策、周瑜二人の出会い

孫堅(37)の自慢の息子たち 孫策(17)、孫権(10)

 

周瑜は揚州廬江郡(ようしゅうろこうぐん)(現在の安徽省)の名門に生まれました。一族は高い要職に就くことも多く、周瑜も成人するとその人物や風采が評判になっていました。

 

海賊時代の孫堅と孫策

 

一方孫策は董卓(とうたく)に対する抵抗で活躍していた「孫堅(そんけん)」の息子として生まれました。

 

呉の孫堅

 

父の孫堅が各地を転戦する中で孫策は離れて暮らしていましたが、徐々に名声を高めていきました。そんな孫策の評判を周瑜は聞き、彼らは面会することになったのです。その時孫策、周瑜共に若干14歳でした。

 

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意気投合、「断金の交わり」を結ぶ

周瑜と孫策

 

その面会で二人は意気投合し、「断金の交」を結ぶことになるのです。

 

「断金の交わり」とは「金属を断つほど強く固い交際」という意味で、周瑜は己が住む地域に孫策を招き、大きな屋敷を孫策に譲り、まるで同じ家族のような生活をしていたそうです。

 

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呉の武将

 

 

孫策、自立し周瑜を招き入れる

孫堅逝く

 

孫堅が劉表(りゅうひょう)との戦いで戦死すると、孫家は孫策が率いることになり、

 

キレる孫策

 

当時大きな勢力を誇っていた「袁術(えんじゅつ)」の傘下に入ります。孫策は袁術の下で戦功を挙げますが、認められず、袁術を見限って江東で自立を果たします。

 

袁術と周瑜と孫策

 

同じころ、袁術は評判が高かった周瑜を配下に迎えようとしますが、周瑜は袁術を信頼しておらず、独立した孫策の下に手勢を率いて駆けつけます。孫策は周瑜を大いに歓迎し、立派な屋敷を用意するなど最高の待遇で彼を迎えました。

 

結婚を喜ぶ孫策

 

一部の部下はそれに不満の声を挙げますが孫策は「公瑾(こうきん)(周瑜の)は昔馴染みで兄弟同然だ。」と表明し、不満を退けています。

 

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袁術祭り

 

 

孫策、周瑜とともに呉の地を席巻す

呉の勢力を率いる孫策

 

孫策は周瑜と協力し、呉の地方を次々に攻略していくことになります。先ずは揚州地方に勢力を誇っていた「劉繇(りゅうよう)」と戦い、負傷はしますがこれを破り、地方制圧の基盤を築くことに成功し、呉郡太守であった「許貢(きょこう)」、会稽太守の「王朗(おうろう)」も破り、更に勢力を拡大することに成功します。

 

一騎打ちをする太史慈と孫策

 

この時、劉の配下であった「太史慈(たいしじ)」は独立勢力として孫策と対峙しますが、これも破り、勇将太史慈を配下にすることにもなったのです。そして孫策は「孫郎(そんろう)(郎は良い男の意味)」、周瑜は「周郎(しゅうろう)」として世間に名が知れ渡るようになっていきます。

 

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太史慈

 

 

喬姉妹を娶り、義兄弟となる

呉の小覇王・孫策

 

孫策はその後、荊州(けいしゅう)地方の攻略に乗り出し、失意のうちに死んだ袁術軍を吸収した「劉勲(りゅうくん)」と戦う事になります。

 

大喬と小喬

 

孫策は謀略を駆使して劉勲の本拠地を落とし、この時に美人で評判の「(きょう)姉妹」を手に入れることになります。この時、姉の「大喬(だいきょう)」は孫策が娶り、妹の「小喬(しょうきょう)」は周瑜が娶り、これによって二人はさらに深い関係になっていきます。

 

大喬

 

ちなみに姉を孫策が娶ったのは孫策が周瑜より1か月早く生まれていたためだったといいます。

 

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朝の仕度のお供は!ながら三国志

 

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

-周瑜, 孫策, 故事成語
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