こんにちは。コーノヒロです。
今回からは、邪馬台国女王の卑弥呼が、出雲王国を飲み込み、「倭国大乱(第一次)」を終わらせたという話をしていきたいと思います。
よろしくお付き合いください。
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
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倭韓連合構想は幻想に終わった?
このあたりの話は、神話とも言われる、記紀(『古事記』と『日本書紀』)の中の、天照大御神(アマテラスオオミカミ)[以後、アマテラス]による
「天孫降臨」の話に重なるとも言われています。
卑弥呼がアマテラスのモデルだというものです。
そうだとして今回も話を進めていきます。
そして、以前の記事では、卑弥呼(アマテラス)が朝鮮半島の「三韓」の王族だった可能性がある説を紹介しました。
その説の立場を取ってお話しますと、「三韓」の王族出身の卑弥呼は、邪馬台国の王として、朝鮮半島と「倭国」と呼ばれた日本列島との
かけ橋となり、共同国家の樹立を目指していた可能性があったと考えます。
その頃、倭国の島々には、すでに強大な国家として発展していた出雲王国がありました。
ここには、卑弥呼と同じく「三韓」の王族であり、その弟とも言われるスサノオが王として君臨し、領土も拡張させていました。
(その範囲は、現在の日本列島の半分近くにまで及んでいたとも言われています。)
そして、そのスサノオが認めた後継者として、オオクニヌシが出雲王国の王位を引き継いでいました。
そう考えると、「倭韓共同国家」構想は着実に進んでいるはずでした。
しかし、それは実現しませんでした。
中国大陸と朝鮮半島で異変があったからです。
中国大陸の覇者の「後漢」王朝の地方長官だった、公孫氏の公孫度が遼東半島にて半独立国家を立ち上げ、朝鮮半島に向けて強勢に出たのです。
それまで数十年にわたっては、朝鮮半島南部の「三韓」が強勢となり、遼東半島から大陸東北部や朝鮮半島北部の「高句麗」へ圧力を加えていたというのです。
それが、逆に圧される形になっていったのです。
そして、公孫氏の次の当主となった公孫康(公孫度の子)は、朝鮮半島中部に「帯方郡」を設置し、南方への侵攻の拠点としました。
そして、遂には「三韓」は、その「帯方郡」に服属したことになるのです。
その流れで「倭国」も服属したというのです。
つまり、「三韓」と「倭国」は、「公孫氏」に降伏し、服属したというのです。
この史実は『三国志正史・韓伝』の中の記述によるものです。
ということは、このときの「倭国」(または、倭国諸国連合とも言うべきでしょうか。)における最高権力者は、「邪馬台国」の女王・卑弥呼であった
と考えるのが自然でしょう。
「倭国」が公孫氏に従ったとき、「倭国大乱(第一次)」は終結していたとされるのですから。
卑弥呼の登場はいつ?
ここで、考えたいのが卑弥呼登場した時期についてです。
以前の記事では、「黄巾の乱」(184年~205年)と「倭国大乱」(第一次)の時期が同時期で、その間に勢力を伸ばしたのが出雲王国で、
その「黄巾の乱」後に、出雲王国が「倭国」の島々では大きな勢力を張っていたと記しました。
そして、卑弥呼の登場は、「魏」王朝の成立あたり、つまり、曹操の死後(220年以降)あたりではないかと先入観を持って書き進めておりました。
それは、以下の資料が信憑性の高い根拠となっていたからでしょうか。
よく世に知られています、
『魏志倭人伝』(三国志正史・東夷伝・倭人)の中に、
「住まる(とどまる)こと七、八十年。
倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち、共に一女子を立てて王となす。
名づけて卑弥呼という。」
という記述があります。
「倭国大乱(第一次)」は約1世紀近くに渡って乱れたというのです。
そして、その記述の10行後あたりに、
「景初ニ年(238年)六月、倭の女王、難升米等を遣わし郡に詣り」
と記述されています。
ここで卑弥呼の功績の年が、238年と初めて出てくるのです。
この年は、「魏」王朝の明帝の時代です。
如何にも、卑弥呼登場の時期は「魏」王朝の時代としている書き方です。
しかし、卑弥呼登場前に起きた「倭国大乱」(第一次)について、別の資料で調べてみたところ、新たな発見があったのです。
それを、報告していきたいと思います。
まずは、こちらをご覧ください。
以下は、
『後漢書・東夷伝』による記述です。
「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更に相攻伐して、暦年主なし、一女子有り、名づけて卑弥呼という」
つまり、「後漢」王朝の、桓帝・霊帝という皇帝の時代に(147年~189年)倭国に大乱があったというのです。
その中で、卑弥呼が登場し、それを治めたという書き方です。
それと同じ記述が『隋書・倭人伝』の章にもあります。
また、『梁書・倭伝』『北史・倭国伝』では、大乱の時期はもっと絞られ、
「後漢の霊帝の代、光和中(178〜184年)に倭国乱れ」とあります。
そして、この倭国大乱を終わらせたのが卑弥呼とされているのです。
多少、記述された年代がズレていたとしても、190年代初頭くらいには、卑弥呼が登場し、倭国大乱は終わったという書き方でしょう。
しかし、それが事実だと、倭国平定の時期が、スサノオが出雲に派遣され、ヤマタノオロチの退治の時期と重なるではないですか?
あるいは、スサノオの出雲入り前に、卑弥呼による倭国平定が行われたとも言えるでしょう。
どちらにしても、それでは、おかしいでしょう。
そもそも、卑弥呼が邪馬台国女王として、倭国連合の盟主として君臨し、乱を平定した時、出雲王国の統治者は、スサノオの後継者の
オオクニヌシだったはずでしょう。
それとも、1年か数年でスサノオの出雲王国の拡張と、オオクニヌシの富国政策が行われた後に、卑弥呼が出雲王国を飲み込みにやって来たのでしょう
か?
しかし、それは、いくら何でも無理でしょう。
このスサノオの統治期間からオオクニヌシの統治期間への引き継ぎは、少なくとも十年単位と見るべきでしょう。
ということは、スサノオが派遣されたのは、もっと前だったのでは?ということなのです。
つまり、「倭国大乱」(第一次)の始まりとともに、つまり、150〜170年代あたりに、スサノオは出雲にやってきたと推察されるのです。
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「三韓」の勢力範囲
画像:朝鮮半島と帯方郡Wikipedia
次の新たな発見として、「倭国大乱」と同時期に「三韓」の勢力は、北九州にまで手を伸ばしていたと考えられるのでは?ということなのです。
根拠としては、『後漢書・韓伝』によると、「桓帝、霊帝の時代(147年~189年)、韓は強盛となる。楽浪郡にまで影響 楽浪郡から韓へ流入あり。」
とあります。
つまり、三韓は、この時期に対外政策に出ていたのです北方に。
ならば、南方へも何らかの形で進出したと考えてよいのでは?ということなのです。
特に、この時期は「倭国大乱」(第一次)と重なりますね。
混乱に乗じ、攻勢に出たとも考えられるでしょうか。
特に、北九州なら、朝鮮半島からは、対馬を越えればすぐなのですから。
北九州は「三韓」の領域になっていたと考えて良いかもしれませんね!
そして、後は、スサノオが派遣された出雲王国も吸収する予定だったのではないでしょうか?
しかし、スサノオは、独自の出雲王国文化圏を「倭国列島」(日本列島)の大半に築いていたと考えられます。
「三韓」の意向に従わない姿勢を貫いていたのではないでょうか?
「三韓」の王族同士の足並みの乱れが見えてきましたね。
日本古代史ライターコーノ・ヒロの独り言
次回は、「三韓」の王族同士の確執と卑弥呼による倭国平定についてお話します。
倭国平定には、『三国志』のあの有名な武将も絡んでいたかもしれないというお話です。
お楽しみに。
【参考文献】
◆『魏志倭人伝』 石原道博 編訳 (岩波文庫)
◆『東アジア民族史1正史東夷伝』 井上秀雄 ほか訳注(平凡社)
◆『魏志倭人伝を読む(下) 卑弥呼と倭国内乱
歴史文化ライブラリー 105』 佐伯有清 著(吉川弘文館)
◆『出雲と大和 ― 古代国家の原像をたずねて ―』 村井康彦著(岩波新書)
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画像:卑弥呼は殺されたのか? 戦死か? 老衰か?自殺か?【卑弥呼殺害説】