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立花宗茂とはどんな人?大河ドラマ希望ナンバー1武将の人気に迫る

2018年12月25日


 

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明智光秀(麒麟がくる)

 

2020年のNHK大河ドラマは「麒麟(きりん)がくる」で戦国武将、明智光秀(あけちみつひで)に決まりました。しかし、戦国時代ファンに聞いた、大河ドラマで取り上げて欲しい武将は実は明智光秀ではありませんでした。

 

立花宗茂

 

多くの戦国ファンに大河ドラマ化を望まれた武将、それが立花宗茂(たちばなむねしげ)です。今回は、どうして立花宗茂が大河ドラマ待望№1に選ばれたのか?その人気の秘密について解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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立花宗茂の人気1 戦国有名武将二人のハイブリッド

立花宗茂

 

立花宗茂は、永禄10年(1567年)豊後国東郡の(かけい)に大友氏の重臣、高橋紹運(たかはしじょううん)の長男として生まれます。この宗茂の父の高橋紹運が傑物(けつぶつ)で、大友氏の重臣として各地を転戦した名将ですが、その人生の最後の最期で大手柄を打ち立てます。天正14年(1586年)九州最強の島津軍2万から5万を相手に、紹運は僅か763人で岩屋城(いわやじょう)に立て籠もり散々に苦しめた上に、島津からの「あなたのような名将を殺すのは惜しいから降伏してくれ」という勧告を拒否し(やぐら)に上って割腹自殺した人物でした。

 

島津忠義

 

大友氏の重臣である高橋紹運があえて、島津氏が最初に襲う前線の岩屋城に籠ったのは、背後の立花城には、息子の立花宗茂や、紹運の家族宝満城(ほうまんじょう)には非戦闘員が大勢いたからだそうで、つまり紹運自らが島津の攻撃の(おとり)になるためだったのです。

 

豊臣秀吉 戦国時代2

 

こうして、紹運が命を捨てて時間を稼いだ結果、大友氏が救援を要請した羽柴秀吉(はしばひでよし)の援軍が間に合い大友氏は滅亡を免れました。息子や家族、弱き人々を守り、自ら最前線に出向いて敵の的になる、並々ならないカッコよさです。

 

立花道雪

 

また、立花宗茂は成長すると、息子がなかった紹運の同僚の立花道雪(たちばなどうせつ)に是非と請われて養子に出されます。この立花道雪も豪傑で、若い頃に落雷が直撃して脊髄を損傷し左足が不随(ふずい)になりますが、部下に輿を担がせて、それに乗って陣頭指揮を執り竜造寺氏や島津氏に押されて没落していく大友氏を支えました。

 

道雪は非常に家臣や目下の人に気を配る人物で、手柄のない部下を励まし、客の前で粗相のあった家臣にも、

 

「このように不調法(ぶちょうほう)なヤツですが、されど槍働きは家中一」と来客に告げて恥をかいたままにせず、部下を大事にしたのでとても慕われました。

 

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

道雪は戦況が厳しくなって部下が怖気づくと、「どうしても逃げるなら、わしを敵中に放り出してから逃げよ」と叱咤したので、彼の軍勢は道雪を殺すまいと奮起して戦い、連戦連勝したと言われています。立花宗茂は、この偉大な戦国武将二人を父として成長します、これが大河になったら、面白くないわけがありませんね。

 

 

立花宗茂の人気2 関ケ原では豊臣の恩義を忘れず西軍につく

 

立花宗茂は、九州征伐にやってきた羽柴秀吉に仕えて九州平定に功績を挙げた後に、大友氏の家臣から分離され筑後柳川(ちくごやながわ)13万石の大名に取り立てられます。その後、小田原征伐、文禄(ぶんろく)慶長(けいちょう)の役でも少数で大軍の明と互角に渡り合うなど武勇を重ねていき、遂には羽柴の名字を許され豊臣の姓を下賜されました。

 

宋銭 お金と紙幣

 

 

秀吉が死去すると、徳川家康は多額のお金で宗茂を買収しようとしますが宗茂は「秀吉公の恩義を忘れる位なら命を絶った方がマシ」と啖呵(たんか)を切り誘いを拒否。なおもしつこく、東軍のメリットを説き、西軍の負けは必定と食い下がる部下には、

 

「勝敗など問題ではないのだ」と一喝し決して、東軍に寝返りませんでした。強い者に靡くのが当然の戦国時代、こうもキッパリと勝敗などより恩義が大事と言い切る武将はそうはいません、カッコいいの一言に尽きますね。

 

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麒麟がくる

 

 

立花宗茂の人気3 満身創痍の島津義弘に情けをかける

薩摩藩の島津義弘

 

立花宗茂は、豊臣秀吉に受けた恩義を忘れず西軍にたって参戦し、京極高吉(きょうごくたかよし)の籠城する大津城を攻めます。ここで宗茂は養父、道雪の残した早込を使って鉄砲の速射を行い三の丸から二の丸を突破し京極高吉を降伏させます。しかし、肝心の関ケ原の合戦が、たった半日で東軍勝利で決着したのでついに間に合いませんでした。敗軍の将になった宗茂は、急いで柳川に引き返しますが、途中で同じく敗戦しボロボロの島津義弘(しまづよしひろ)の軍に遭遇しました。

 

島津は岩屋城で実父、高橋紹運を自害に追い込んだ仇敵(きゅうてき)であり、立花の家臣たちは仇を討とうといきりたちますが宗茂は「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」とこれを退け、むしろ島津軍の護衛を申し出、島津義弘と友誼を結んで無事に柳川まで帰還しました。

 

「いかに仇敵であろうと、同じく西軍で戦い敗れたものを討つ事は出来ない」宗茂の義理と人情がいかに徹底したものであったかが分かる逸話です。

 

 

黒田官兵衛

 

 

その後、柳川は東軍の鍋島直茂(なべしまなおしげ)黒田如水(くろだじょすい)加藤清正(かとうきよまさ)に攻められ、宗茂は和睦を受け入れ開城しますが島津義弘は護衛してもらった恩義を返そうと出兵、しかし僅かな差で柳川は開城した後であり空しく引き返してしまったそうです。

 

 

立花宗茂の人気4 本多忠勝とマブダチ旧領を回復した唯一の武将

足軽b-モブ(兵士)

 

西軍に与した事で、宗茂は柳川を没収され浪人になります。しかし、九州征伐、文禄・慶長の役、関ケ原での飛び抜けた漢ぶりは敵味方問わず話題になり加藤清正や前田利長(まえだとしなが)から家臣になるように誘われますが宗茂は謝絶します。

 

そこで、清正は家臣にする事を諦め客将として遇したそうです。その後、宗茂は付き従う従者を連れて京都に上り、1603年、江戸に下った宗茂は本多忠勝の世話で高田の宝祥寺を宿舎として蟄居生活に入り、翌年には忠勝の推挙で徳川家康に抱えられ5000石で御書院番頭(ごしょいんばんとう)という親衛隊長のクラスに抜擢されました。その後、すぐに陸奥に1万石を与えられ大名として復帰、徐々に加増され1610年には3万5000石になります。

 

合戦シーン(戦国時代の戦)

 

大坂の陣では、徳川家康は宗茂が豊臣サイドにつかないようにかなり説得したようです。しかし、一度、徳川に仕えた以上、宗茂が再び豊臣に寝返る事はなく、大阪の陣では徳川秀忠(とくがわひでただ)の警護と参謀役を勤め、豊臣秀頼(とよとみひでより)の参陣がないと予言して的中させるなど変わらない戦略眼を見せます。

 

このような活躍があり、1620年には筑後柳川の旧領10万9200石を与えられ、数多(あまた)いる戦国大名で唯一、失った領地を取り戻した武将になります。宗茂は長命で、島原の乱にも総大将、松平信綱(まつだいらのぶつな)の補佐として参陣して有馬城攻略では、一番乗りを果たすなど老いても変わらない武勇を示しました。

 

丹羽長秀

 

 

伊達政宗(だてまさむね)加藤嘉明(かとうよしあき)丹羽長重(にわながしげ)と共に、若き将軍、徳川家光(とくがわいえみつ)に戦国時代の昔話を語る御伽衆の役割を果たしています。敗残の将など、冷たい目線は浴びても取り立てられるなど実力者であればあるほど難しいですが立花宗茂は改易直後から東軍の武将に引く手数多だったのが凄いです、よほどの男ぶりであったのでしょう。全てを失い、ゼロから累進して旧領地を取り戻す宗茂のサクセスストーリーは逆境にある人の励みになるでしょうね。

 

 

立花宗茂の人気5 妻の誾千代とは仲が悪い

水滸伝って何? 書類や本

 

 

このように人格高潔で、篤実温厚(とくじつおんこう)、武功抜群の非の打ちどころがない立花宗茂ですが、立花道雪の娘(養女とも)誾千代(ぎんちよ)とは縁組したものの仲が悪く別居状態だったそうです。この誾千代は父、道雪にも劣らない女丈夫で武芸の達人、しかも美女であったそうで、豊臣秀吉が宗茂が朝鮮に渡ったのをいいことに策略で手籠めにしようとしますが、完全武装した誾千代に凄まれて諦めてしまったという逸話があります。

 

しかし、この二人、宗茂が柳川城を得て、大名として独り立ちした頃から別居しています。理由は不仲という話ですが、具体的な事情は伝わっていません。誾千代は、元々、婿(むこ)を取らず道雪が直接家督を相続した女丈夫であり、そこに宗茂が養子に入ったものですから、家中には二匹の虎がいるようなもので、やる事為す事で対立してしまったかも知れませんね。

 

 

立花宗茂の人気6 物に拘らなかった逸話

同年小録(書物・書類)

 

 

立花宗茂は、名門の出らしく、鷹揚(おうよう)にして俗事にこだわらない点がありました。関ケ原で敗北し浪人をしている頃、宗茂の家臣がもらってきた残飯を日干しにしてから外出すると、天気が急変して大雨が降ってきました。

 

家臣たちは、宗茂が日干しした残飯を家の中に入れているだろうかと噂し、もしそんな些末な事を気にする人なら、とても再仕官は出来ないだろうと噂し合いました。果たして家に帰ってみると、残飯は外に出されたままグシャグシャで宗茂は何も気にせず読書をしていたそうです。この鷹揚レベルだと洗濯物を干して雨が降っても絶対に取り込まないでしょうね、この人。ですが、悠揚迫らず、大きな気持ちで暮らしていた人である事が分かる逸話です。

 

 

戦国時代ライター編集長の独り言

 

以上、立花宗茂の人気の秘密について紹介しました。戦国の世ですから強い武将は沢山いますが、智・人・勇すべてを兼ね備えた名将は少ないものです。その意味では、立花宗茂はストーリーを盛る必要もなく、むしろどこを削るべきかで悩む贅沢な戦国武将と言えるでしょう。また、戦国の名だたる名将とリアルにつながっているので、有名どころの俳優を全て網羅しないとならず大河ドラマとしても、重厚な布陣で臨むほかなく必然的に名作になるかと思います。

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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