武田信玄の父、武田信虎も優れた戦国武将として知られています。
そんな信虎が甲斐に築き上げだのが躑躅ヶ崎館だったのです。
躑躅ヶ崎…という漢字は一目でなんと読むのかが分かりづらいですが、「つつじがさき」と読みます。
この躑躅ヶ崎館があった場所は、南に面したなだらかな扇状地の上部に位置しているので、甲府盆地の方面の見晴らしも良かったのでしょう。
さらに、躑躅ヶ崎館の北側はの山々がそびえ立ち、西と東にも峰があるため、敵が攻めてくるのは南側からのみとなり、
天然の要塞となっていたのです。
三方を自然に覆われて、敵の侵略を防いでいたものといえば、鎌倉幕府を思い起こさせます。
躑躅ヶ崎館の場合は、南側も少しではありますが高台となっていたため、ますます防御に適していたのです。
それに加えて、山からの湧水もあり、少し井戸を掘れば水の確保もできたため、まさに自然に恵まれた城塞であったといえるでしょう。
また、躑躅ヶ崎館の敷地面積はけっこう広かったようです。
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信玄の「人は城」エピソードはじつは江戸時代に作られたものだった?
信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」といい、甲斐に城は必要ないと考えていたとされていますが、
これは江戸時代に作られたエピソードであるようです。
信玄は父である信虎が築き上げた躑躅ヶ崎館を追加で造営したり、背後に要害山城を築いたりしましたが、権力を持っていたにもかかわらず、
他の戦国武将のように、これといった名城は築きませんでした。
その理由には、信玄の拠点であった甲斐は自然の要塞に恵まれており、防御に特化した城を築く必要がなかったということが挙げられます。
信玄にまつわる城
信玄にまつわる城で、要害山城という城があります。
「ようがいさん」という読み方のこの城は、甲斐の躑躅ヶ崎館とはほど近く、信玄が生まれた城です。
武田家の居城は躑躅ヶ崎館ですが、信玄が生まれたときは父の信虎は戦の最中であったため、信玄の母親は要害山城に避難していたのです。
そして、そこで生まれたのが後の「甲斐の虎」と称される信玄だったのです。
ちなみに、信玄の幼名は太郎でした。
戦国時代を代表する武将のひとりであり、雄々しいイメージを持つ信玄にしては、意外と普通な名前だと思いませんか?
城そのものよりも城下町の形成に力を注いだ信玄
信玄はいくつもの優れた城を築き上げるということはしませんでしたが、城下町の形成に力を注ぎました。
甲斐国の躑躅ヶ崎館周辺は立派な城下町となっていたのです。
居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっており、信虎、信玄、そして信玄の息子の勝頼と3代にわたって発展していき、
後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となりました。
ちなみに、この城下町は武田城下町と呼ばれ、どことなく京風の街並みを意識して作られていたそうです。
当時は京風の街並みが優れているとされたのでしょうか?ちなみに、躑躅ヶ崎館の跡地は現在では武田神社となっています。
日本史が好きな人、あるいは武田信玄という武将が好きだという人は、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか?
信玄が居住し、家臣たちも住んでいた場所であるので、何かしらを感じることができるかもしれません。
戦国時代ライター星野まなかの独り言
権威の象徴といえる立派な城は築き上げませんでしたが、信玄は家臣や民衆が住みやすい城下町の形成に力を注ぎました。
このことから、江戸時代に「人は城」という、信玄が人材を何より大切にしているというエピソードが登場したのではないでしょうか?
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