比叡山が焼かれたのは自業自得?高利貸しだった延暦寺


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廃仏毀釈

 

織田信長(おだのぶなが)の蛮行として知られ、明智光秀(あけちみつひで)も参加した比叡山(ひえいざん)の焼き討ちこれだけ聞くと、信長は平和的な宗教を弾圧する残酷な独裁者に見えます。

しかし、実際の比叡山は、多くの破戒僧(はかいそう)を僧兵として保持する実力組織でもありました。

つまり、無抵抗なお坊さんを斬り殺したのとはイメージが違うのです。それともう一つ、比叡山は実際には多くの庶民に恨まれてもいました。

理由は比叡山が当時の日本で有数の金持ちであり、その資金で高利貸しをしていたからなのです。

 

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管領細川高国に金持ち認定された比叡山

琵琶湖から見た比叡山

画像:琵琶湖から見た比叡山 Wikipedia

 

1508年、管領(かんれい)細川高国(ほそかわたかくに)は通貨の受け取りに関する法令撰銭令(えりぜにれい)を出します。

その対象となったのは自治都市の大山崎(おおやまざき)(さかい)、細川高国、大内義興(おおうちよしおき)、山門使節、青蓮院(しょうれんいん)興福寺(こうふくじ)、比叡山三塔となっていました。

 

撰銭令は、通貨に流通に関する法令なので、その対象となるのは多くの銭を持つ人つまり、大金持ちという事になります。

この中で、細川高国と大内義興、自治都市の2つを除くと残りは全て寺院関係です。

しかも、その4つの中で、山門使節と青蓮院と比叡山三塔は比叡山系の組織でした。

お寺が大金持ちと聞くと違和感がありませんか?何故、寺院、しかも比叡山系が大金持ちだったのでしょうか?

 

 

祠堂銭を金貸しで運用し富を蓄えた比叡山

宋銭

 

当時の寺院は広大な荘園(しょうえん)と信者からの寄進で巨万の富を築いていました。

しかし、これらの寺院は、そのような自然に入ってくる収入ばかりではなく、金貸し業も行っていた事が分かっています。

それは元々、祠堂銭(しどうせん)と呼ばれ、禅宗寺院が身寄りのない人の埋葬や寺院の修理の為に信徒から集めたお金でした。

やがて、祠堂銭は使い切れずに溜まるようになり、禅宗はこれを元手に金貸し業を開始するようになります。

 

もっとも、それは一概に悪い事ではありませんでした。

金貸しを開始した頃、その利率は二文、月金利2%という超低金利だったのです。

これは資力がない庶民に喜ばれ慈善事業として幕府も徳政令から除外しました。

祠堂銭は徳政令が出ても返済が免除されなかったわけです。

ところが、徳政令から祠堂銭が除外される事を知った他の寺院は、「これは良い儲けになる」と看板を掛け代え祠堂銭金貸しを開始します。

 

どこかで見たような構図ですが、この中で比叡山系は特にアコギでした。

その利率は、月に4~6文と当時の平均的な金貸しの利率とほぼ同じで、年利だと48~72%というブラック金融だったのです。

こんなあくどい事をお坊さんがやっていたとは、今からは想像できません。

 

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平安時代に遡る比叡山の金貸し

画像:伴大納言絵詞Wikipedia

画像:伴大納言絵詞 Wikipedia

 

しかも、比叡山が金貸しになったのは祠堂銭の為ではありません。それは、平安時代にまで遡るのです。

比叡山に鎮座した日吉大社(ひよしたいしゃ)は、最澄(さいちょう)が比叡山を開いた時の地主神とした神社ですがこの日吉大社が平安時代に私出挙(しすいこ)というのを開始します。

出挙というのは、元々、国が貧しい農民に種籾(たねもみ)を貸し付けて収穫の時に利息と共に返却させる一種の救貧制度で、低利による融資でした。

ところが、これに目をつけた貴族や豪族が、国と関係なく私出挙として高い利率で貧農に種籾を貸し付け始めたのです。

 

現代で言えば、低利ないし無償だった奨学金(しょうがくきん)の審査が厳しいのに目をつけ、色々な金融機関が大学生に奨学金モドキの名目で

お金を高利率で貸すようになったみたいなもんですね。

いつでも立場が弱い人は食い物にされてしまうものです。

日吉大社も、私出挙で暴利をむさぼり、どんどん富を蓄えていきました。


  

 

 

京都にある土倉の8割が比叡山の持ち物

悪党(鎌倉)

 

貨幣経済が発展すると、穀物ではなく直接、銭を貸し付ける借上(かしあげ)という仕事が登場します。

平安後期から南北朝期にかけて、彼らは完全な高利貸しになっていました。

借上は、質草に取り上げた商品を土で壁を塗り固めた土倉(どそう)で保管していて、それが転じて高利貸しは土倉と呼ばれるようになります。

鎌倉時代の末には、京都にある335軒の土倉の中で実に8割280軒が延暦寺の支配下にあったと言われています。

 

延暦寺の土倉は「山門気風の土倉」と呼ばれ、時に徒党を組んで武装し債務者の家に押し込んで暴力的な取りたてに及びました。

猖獗(しょうけつ)を極める比叡山の土倉に対し、室町幕府は1393年に土倉役を置いてそこから税金を取るようになり、土倉は幕府により一元管理されます。

しかし飯のタネを奪われた延暦寺はこれに抗議、土倉に独自に課税しては幕府に禁止されるといういたちごっこを繰り返しました。

この争いも、1467年に応仁の乱で京都が焼けると、土倉も大半が焼失、延暦寺系の土倉もあらかた焼けてしまい、

金貸しの比叡山も手を引かざるを得なくなりました。

 

信長が比叡山を焼いた本当の理由は流通圏の奪取

織田信長

 

このようにアコギな金貸し業をしていた比叡山は庶民に恨まれました。

しかし、織田信長が比叡山を焼いた理由は、それだけではないようです。

比叡山は、近江から北陸まで広大な所領を持ち、また琵琶湖の水運を握っていました。

延暦寺は、陸上と水上に無数の関所を置き、陸上運送業者の馬借(ばしゃく)、水上業者の問丸(といまる)もすべて比叡山山徒の支配を受けていたと

「延暦寺の山僧と日吉社神人」の活動で豊田武(とよだたけし)氏が指摘しています。

 

一方の織田信長も、尾張から京都間の陸路と海路を抑えて流通を活発にし、国を豊かにする政策を敷いていました。

信長にとって、近江から北陸に繋がる流通を握る比叡山は、完全な商売敵であり滅ぼさないにしても利権を奪う必要がある相手だったのです。

明智光秀は史実では比叡山の焼き討ちに積極的だったそうですが、その後、光秀が近江坂本を居城とするのとそれは無関係ではありません。

つまり、比叡山は経済観念に(さと)く、信長のビジネスモデルを阻害するからこそ焼き討ちされてしまったのですね。

 

参考文献:最新研究が教えてくれる!あなたの知らない戦国史

 

戦国時代ライターkawauso編集長の独り言

 

あらゆる暴力に反対し、金銭に淡泊な人々のイメージのお坊さんですが、平安から戦国にかけての延暦寺は、バリバリの武闘派で金貸しで

流通を握る商社で戦国大名顔負けの巨大勢力でした。

そして、経済に聡い延暦寺が同じく、経済に明るい信長と衝突した時、それは流血を避けられない事態を呼ばずにはいられなかったのです。

 

関連記事:戦国時代最初の天下人は織田信長ではなかった?

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【信長を討った明智光秀の波乱の生涯】
麒麟がくる

 


 

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