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戦国策【宋衛中山策】小国は色々大変なのよの巻

2019年1月14日


 

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戦国七雄の地図

 

戦国時代に活躍した遊説家(ゆうぜいか)たち。

彼らが活躍していたのは九鼎(きゅうてい)を持つ周や戦国の七雄と称された(かん)()(ちょう)(えん)(せい)()(しん)といった大国だけではありません。

(そう)(えい)中山(ちゅうざん)といった比較的小さな国でもその手腕をふるっていました。

 

今回は、『戦国策』の末尾に掲載されている宋策・衛策・中山策よりそれぞれの国のエピソードをご紹介します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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不気味な笑顔〈宋策〉

陳平

 

斉が南に国境を接する宋に攻め入ったときのお話。

宋はこの危機を乗り越えるべく、宋の臣・臧子(ぞうし)を南の大国・楚に遣わしました。

 

楚王は笑顔で臧子を歓待し、救援要請を快諾。

これで一安心かと思いきや、臧子の表情は暗く沈んでいます。

 

臧子を見た御者は

「楚に助けてもらえることになったのになぜそんなに憂い気でいらっしゃるのですか?」

と尋ねました。

 

すると臧子は次のように答えました。

 

「宋は小さく、斉は大きい。

小さな宋を救って大きな斉に憎まれることは王であれば避けたいこと。

しかし、楚王はなぜか笑顔で大喜びしていた。

これはおそらく宋に斉と戦わせることを決意させようとしたに違いない。

宋が命がけで戦って斉が疲れれば楚だけが得をすることになるからな。」

 

結局臧子の懸念通り斉王が宋の城を5つ攻め落としても

楚王が助けに来てくれることは無かったのでした。

 

 

 

他国に逃げた罪人を追う理由〈衛策〉

黒山賊

 

戦国時代には既に韓・魏の属国のような状態だった衛ですが、こんなエピソードが残されています。

衛の嗣君(しくん)の時代、罪人が魏に逃げ込むという事件が起こりました。

衛は魏に罪人を引き渡してもらうのに百金を用意したのですが、魏は応じてくれません。

 

そこで嗣君は左氏(さし)という地をも差し出して魏に罪人を引き渡すようにお願いしようとしました。

ところが、嗣君のこの決断に群臣が猛反発。

 

しかし、嗣君は群臣をなだめて次のように説いたのでした。

 

「国を治めるのに国の大小はない。

教化して民を諭せば小さな町でも国の治をもたらすのに十分だ。

しかし、民に廉恥(れんち)の心がなければ左氏の地が十あろうとそもそも何の役に立つだろうか?」

 

小さな国である衛ですから、群臣たちは衛が更に小さくなってしまうことを心配したのでしょう。

しかし、衛の嗣君は豊かな国というのは領土の大小ではないと考えて信賞必罰を徹底しようと考えていたのですね。

小国の君でありながら、器の大きさは相当のものだったようです。

 

楚漢戦争

 

 

食べ物の怨みと恩〈中山策〉

料理人

 

あるとき、中山の君主が町の士大夫にご馳走を振る舞いました。

その中には中山の臣・司馬子期(しばしき)も列席していたのですが、どういうわけか羊のスープが司馬子期の元まで行きわたりませんでした。

このことに怒りを覚えた司馬子期は楚に行って楚王を説き、中山を討たせました。

命からがら逃げ延びた中山の君主でしたが、彼には矛を持って付き従う者が2人。

 

中山の君主は不思議に思い、2人に何者かと尋ねたところ、次のように答えました。

 

「私たちの父が飢え死にしかけていたところ、君は壺中の食べ物を恵んでくださいました。

父は今際の際に『中山に大事が起こったらお前たちは中山のために死になさい』と言いました。

そのため私たちは君に殉じようと馳せ参じたのです。」

 

中山の君主はこれを聞いて大きなため息をつき、天を仰いで次のように嘆きました。

 

「施しは多かろうと少なかろうと困っているときが肝心。

恨みは大したことであろうとなかろうと心を傷つければこそ。

私は一杯の羊のスープで国から逃げ、一壺の食べ物で士を2人得た!」

 

食べ物の恨みは恐ろしいと言いますが、まさかこんなことで国を追われるなんて中山の君主も思っていなかったでしょう。

そして、ちょっと食べ物を恵んであげた人の子供たちが自分のためにここまで付いてきてくれるなんてやはり予想だにしていなかったはずです。

中山の君主は食べ物によって悲しみと喜びの両方を得ることになりましたが、彼にとってはどちらの気持ちの方が大きかったのでしょうか?

   

 

三国志ライターchopsticksの独り言

 

いかがでしたか?

 

戦国の七雄と比べても影が薄い小国であった宋・衛・中山でしたが、それぞれに他の国には負けないような面白いエピソードが残されていまね。

これで『戦国策』シリーズはおしまいとなりますが、この記事をきっかけに『戦国策』に興味を持ってくれる人がいれば幸いです。

皆さんもぜひ正史では読めないエピソード満載の『戦国策』を手に取ってみてくださいね。

 

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呂布対項羽

 
 

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