漢代のシルクロードではどんなお宝が行き来してた?シルクロードは誰が開通した?

2019年1月26日


 

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曹操(後漢王朝)とローマ帝国

 

世界は大まかに

東洋と西洋の2つに分類されます。

 

東洋と西洋の分類には諸説あるようですが、

東洋はトルコから東のアジア全域を指し、

西洋はヨーロッパや南北アメリカ、

オーストラリアなどを指すと

考えられることが多いようです。

 

こうして東洋と西洋を見比べてみると、

東洋には主に黄色人種が、

西洋には白色人種が住んでいることがわかりますね。

 

東洋と西洋は人種も違えば言葉も文化も何もかもが違います。

今でこそグローバル化が進んで

東洋と西洋の距離は割と近いものに感じられるようになっていますが、

ちょっと前まで

東洋と西洋は互いに縁遠い存在だったのだろうと

思っている人はけっこういるでしょう。

 

しかし、

2つの世界は遥か昔の紀元前の時代から

既に交流を持っていたようです。

そして、

その交流ルートとして有名なのが

シルクロード。

 

シルクロードは

当時東洋世界の中心地であった長安と

西洋世界の中心地であったローマをつなぐ

重要なルートでした。

 

今回は、

東西世界を結ぶシルクロードの成立について

ご紹介したいと思います。

 

関連記事:古代ローマ人の末裔が中国のある村に住んでいる!?

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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前漢7代皇帝・武帝の時代にシルクロードが開通

 

シルクロードが開通したのは

紀元前100年頃の

前漢7代皇帝武帝(ぶてい)の時代であると考えられています。

 

武帝は匈奴討伐に力を入れていたことで有名ですが、

西域への遠征にも力を入れていたことでも知られています。

西域遠征の際に

中心的人物として活躍したのは

張騫(ちょうけん)という人物でした

 

張騫は

武帝が大月氏(だいげっし)への使者を募った際に

自ら名乗りを上げ、

100人ほどの使節を連れて

勇んで西域に向かいました。

 

ところが、

張騫は現在の甘粛省あたり、

隴西で匈奴に捕らえられてしまいます。

大月氏に行く理由を怪しまれた張騫は

なんと十数年もの間拘留されてしまうことに。

 

匈奴による長い拘留の間、

張騫は匈奴の人々の心を射止め、

妻を与えられて子どもまで授かりましたが、

張騫は大月氏への使者としての役割を

決して忘れることがありませんでした。

 

ある日、

ようやく匈奴からの脱出に成功した張騫は

数十日間西へ西へと走り続けて大宛に到着。

大宛で張騫は歓迎され、

大月氏への道を教えてもらって

ついに大月氏の王に謁見することができました。

 

同じく匈奴に痛い目に遭わされた者同士

手を取り合って匈奴を討とうと力説した張騫。

ところが、

大月氏の答えはNO

 

なんと大月氏は

匈奴に追われたことによって

かえって安寧の地を手に入れたということで

匈奴に対する恨みを忘れてしまっていたのでした。

 

ガックリと肩を落として帰路に着いた張騫は

またも匈奴に捕らえられて1年拘束されるなど

泣きっ面に蜂状態。

 

しかし、

辛い帰路の中で

1つだけ嬉しい土産話を手に入れることができました。

それは

雲南からビルマを通って

インドまで行けるルートがあるという情報です

 

ようやく長安にたどり着いた張騫は

武帝に例のルートを使って西域と交流を深め、

匈奴と対抗するべきだと進言します。

 

この張騫の進言の通り

西域の国々と積極的に交流を持った結果、

匈奴との戦いを優位に進めることができるようになり、

更には後にシルクロードと呼ばれる

東西世界を結ぶルートが出来上がったのです。

 

 

 



念願の汗血馬をゲット

汗血馬を手に入れる李広利

 

シルクロード開通にあたり、

最も大きな原動力となったのは

武帝の汗血馬への渇望でした。

 

匈奴にボコボコにされて

10万以上の馬を失っていた武帝は

匈奴が乗っている馬よりも更に強い馬が欲しいと

常々考えていました。

 

そこに

張騫が帰ってきて

大宛に千里を走る汗血馬がいる

という報告をしたものだから

武帝の目は一気に大宛に向けられます。

 

武帝は大宛に遠征軍を送って

汗血馬を3000頭以上ゲット。

喜びの余り

「西極天馬歌」を作らせたと言います。

 

 

あらゆるお宝の外に様々な果実が中国へ

 

シルクロードは「絹の道」という意味で

中国からたくさんの絹が

西洋にもたらされたことに由来して付けられた呼称です。

 

では、

西洋から中国にはどのようなものが

もたらされたのでしょうか。

それは

玻璃や瑠璃といった宝物だったり

香料だったりと様々だったようです

 

しかし、

そういったお宝のようなものだけではなく

ゴマやキュウリ、

ブドウやザクロなどの果物なども

シルクロードを通って中国にもたらされたのだそう。

 

私たちにとっても身近なものが

漢代には既に

西洋から東洋にもたらされていたのですね。

   

 

ローマからの使者が漢に!?

 

実は、

シルクロードを通じて

物だけではなく人の交流もあったのだとか

 

後漢の班超(はんちょう)

部下の甘英(かんえい)をローマに送り、

ローマからも

当時の皇帝・マルクス=アウレリウス=アントニヌスの使者が

漢王朝を訪れたと言われています。

 

ただ、

甘英の方はローマには

たどり着けなかったようですけれどね。

 

三国志ライターchopsticksの独り言

 

シルクロードが開通したからこそ

漢はより豊かな国になったのでしょうね。

 

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