明智光秀に都市伝説が浮上する要因として、明智光秀は山崎の戦いで敗れた後、坂本に逃げる途中で農民に殺害されましたが、首が発見されていないことが挙げられます。これまでの記事において都市伝説として、徳川家康の家臣である南光坊天海になった説や千利休に変身した説を取り上げました。これらの都市伝説についてはあり得ないという結論に至っています。
都市伝説として南光坊天海が服部半蔵だったという都市伝説もあります。そこから、明智光秀と服部半蔵は同一人物という説もあります。この記事では前半で服部半蔵と半蔵の功績である伊賀越えを取り上げます。後半では明智光秀と服部半蔵が同一人物であるという説について取り上げます。
服部半蔵とはどんな人?
服部氏は伊賀流忍者の首領を務めた一族でした。服部家は伊賀国出身ですが、徳川家康の祖父の松平清康の代から江戸時代にかけて代々仕えてきました。服部半蔵といえば忍者を思い浮かべる読者が多いと思いますが、実際に忍者だったのは初代だけで、二代目以降は忍者ではありませんでした。半蔵という通称は服部家の歴代当主が名乗っていました。
徳川家康の家臣として知られている服部半蔵は、二代目で本名は服部正成といいます。1542年三河国の伊賀に生まれました。服部正成は徳川家康の家臣となると伊賀忍者頭領に任命されました。1597年に病気で死亡しました。服部半蔵の名前は正成の嫡男・正就が継ぎました。
服部半蔵の功績・伊賀越えとは?
1582年に天目山の戦いで武田勝頼を滅ぼした後、徳川家康は織田信長の招待で安土城など上方を旅行していました。徳川家康の一行が堺に滞在していたときに本能寺の変が起こりました。
本能寺の変で織田信長が自害したことを知ると、徳川家康の一行らは堺から脱出します。堺から脱出する際、伊賀・甲賀を通って三河に帰還しました。この出来事を伊賀越えと呼んでいます。伊賀越えの際、服部正成と商人の茶屋四郎次郎とともに伊賀・甲賀の地元の土豪と交渉し、堺から伊勢に向かいました。徳川家康ら一行は伊勢から船で三河国の岡崎まで移動し、脱出に成功しました。
伊賀越えに成功したことにより服部家は江戸時代まで仕えました。商人の茶屋四郎次郎は江戸時代初期の貿易を担いました。
服部半蔵=明智光秀は本当か?なぜ明智光秀の関わりの深い伊賀を越えられたのか?
本能寺の変後に明智光秀が服部半蔵になったという説がありますが、本当でしょうか。伊賀越えで有名な伊賀国は明智光秀と深い関係のある土地でした。服部半蔵と商人の茶屋四郎次郎の根回しだけで、徳川家康ら一行を護衛できたのかという疑問が出ました。この疑問に対して、明智光秀は服部半蔵になったという都市伝説が浮上しました。明智光秀が服部半蔵に変身すると、徳川家康ら一行は簡単に伊賀を越えることができるでしょうか。
ただし、明智光秀は本能寺の変後に安土城を落とし、火を放っているという記録が残されていていることから、明智光秀は服部半蔵に変身したという都市伝説はあり得ないという結論に至っています。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は明智光秀の都市伝説として服部半蔵を取り上げました。明智光秀が本能寺の変後に南光坊天海や千利休など様々な人物に変身して生き延びたという都市伝説が浮上していますが、すべての都市伝説についてはあり得ないという結論に至っています。今回取り上げた服部半蔵についてもあり得ないという結論に至っています。
明智光秀だけでなく、これまでの歴史上の人物で都市伝説が浮上している人もいます。これから都市伝説が浮上している歴史上の人物に注目したいと思います。また、大河ドラマ『麒麟がくる』の放送に伴い、新しい発見があることを期待したいと思います。
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