華南とはどんな王朝?宋書倭国伝にも記載されている大和朝廷と繋がった王朝

2019年2月1日


 

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幕末 魏呉蜀 書物

 

時は南北朝時代(なんぼくちょうじだい)(439~589)

 

江南の梁(502~557)という王朝で執筆された『宋書』という歴史書があります。

これは梁の先々代の王朝である宋(420~479)に関しての歴史書です。

 

ここに出てくる宋は、春秋時代の王国「宋」でも、10世紀から13世紀に繁栄した王朝「宋(北宋・南宋)」でもありません。

劉氏が建国したので他の宋と区別するため、専門家は「劉宋」と呼んでいます。

だから、ここでも劉宋と呼びます。

 

ところで、この劉宋と交流していたのが倭の五王です。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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夷蛮伝の東夷の条に記述されている内容(宋書倭人伝)

読書する劉備

 

宋書には、異民族の事について記した部分があり、その中の夷蛮伝の東夷の条に

5世紀当時の日本について記述された部分があり、これを宋書倭人伝と呼んでいます。

倭の五王は、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)と言う
人物です。

 

五王は日本の天皇であり、讃(=仁徳天皇)、珍(=反正天皇)、済(=允恭天皇)、
興(=安康天皇)、武(=雄略天皇)と言われています。

 

ただし、『宋書倭国伝』は外交交渉の部分だけに限定され、風土、産物、制度、歴史についての記述がなくまた倭の五王については『日本書紀』には一切記載が無いので、実際は上記の五王が天皇に該当するのか諸説あります。

 

でも、当時の日本が劉宋と交流していたのは紛れもない事実です。

ところで劉宋という王朝は、一般に知られていません。

 

そこで今回は倭の五王が交流した劉宋について宋書倭国伝に登場する倭の五王とからめて解説します。

 

 

 

自称漢の末裔 劉裕

 

 

劉宋王朝の建国者は劉裕(りゅうゆう)という男です。

劉裕の出身地の彭城(ほうじょう)には多くの劉姓の人がいたのですが、全員が漢王室の子孫と名乗っていたのです。

 

すごい単純です。

 

劉裕は家は貧しく教養も無かったのですが、親分肌の人間でした。この点は劉邦(りゅうほう)と似ています。

劉裕は最初は、司馬氏の東晋王朝に仕えていましたが、王朝にはかつての勢いはありませんでした。

 

劉裕の名前が高まったのは当時、江南を荒らしていた孫恩(そんおん)の率いる一揆勢の討伐でした。

この一揆勢は後漢末の張角(ちょうかく)の大平道のような軍勢です。

劉裕はこの時の功績により、軍閥や貴族たちから信頼が集まりました。

 

さらに、東晋王朝の政治を思うままにしていたライバルの桓玄(かんげん)を討伐して、政治の実権を握りました。

やがて貴族や軍閥から、支持を受けた劉裕は皇帝になりました。

 

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一族での殺し合い

 

劉裕の死後、皇帝は子どもの劉義符(りゅうぎふ)が継ぎました。

劉義符は武術に優れた人物でしたが遊び好きであったので、家来と弟の劉義隆(りゅうぎりゅう)に暗殺されました。

こうして劉義隆が即位しました。彼の時代は〝元嘉の治〟と呼ばれて、文学・芸術が盛んになりました。

 

倭の五王の讃・珍・済は劉裕・劉義隆の時代に使者を派遣しており、将軍号・郡太守号を与えられています。

短期間にこんなに使者が派遣されるのは、いかに劉宋が繁栄しているか分かります。

ところで劉義隆は名君でしたが、その息子2名は親の威光を笠に着るドラ息子でした。

 

ドラ息子2名は自分たちの悪事が、父にばれることを恐れて、先手を打って劉義隆を殺害しました。

だが、劉義隆から愛情をあまり受けなかった劉駿(りゅうしゅん)がおり、その子が2人を殺害して即位しました。

 

ところが、やはり血は争えません。劉駿も少しでも気に食わないことがあったら、誰でも殺す異常者でした。

また、遊び好きだったので、劉裕・劉義隆の2代が貯めた中央の財産をたった1代で使い切りました。

 

おかげで、民が困窮して餓死者が続出しました。

劉駿が死んだ時に部下は、ほっとしたと言われています。

 

宋書倭国伝によると、倭の五王の興が使者を派遣したのは、劉駿の時に1度だけです。
その後しばらくの間は途絶えます。

 

日本は劉宋に対して、危険な雰囲気を感じたのだと思います。

劉駿の子どもの劉業(りゅうぎょう)が皇帝になりますが、叔父の劉彧(りゅういく)により殺されました。

その結果、劉彧が皇帝になります。この劉彧も部下や親族を大量に殺しました。

 

次の劉昱(りゅういく)も同じことをしました。

この一族は人殺しのことしか頭にないようです。

   

 

倭の五王最後の使者派遣と劉宋の滅亡

 

倭の五王の最後の1人の武が劉宋に使者を派遣するのは、最後の皇帝の劉準(りゅうじゅん)の時です。

内容は朝鮮方面の征伐承認とそれについての任官でした。

 

時は昇明2年(478年)でした。

しかし、この1年後に劉宋は滅亡しました。

 

骨肉の争いを続けるため、部下の簫道成(しょうどうせい)に見切りをつけられ、乗っ取られたのです。

日本はその後、南北朝の王朝と若干の交流はありますが劉宋ほどありません。

再び交流が活発化するのは隋・唐の王朝になってからです。

 

劉宋史ライター晃の独り言

 

倭の五王は非常に史料が少なく、何かと絡めて執筆した方が良いと思って今回は劉宋時代の歴史を絡めて執筆してみました。

思った以上に自分にとってはよい経験になりました。

しかし異常な皇帝が多いですね・・・・・・

 

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赤兎馬はカバ

 

 

 

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