西夏(1038年~1227年)は現在の中国の甘粛省・寧夏回族自治区に建国されていた王朝です。
通称タングート族と呼ばれています。
当時、中国を支配していた北宋(960年~1127年)とは戦争を行うほどの対立関係でした。北宋滅亡後は南宋(1127年~1279年)とも対立することになりますが、北宋ほどの激しい関係ではありません。
最後はモンゴルのチンギス・ハンにより滅ぼされました。
ところで、西夏を建国したタングート族とはいかなる民族でしょうか。
今回はタングート族について解説致します。
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北魏の末裔?
西夏を建国したタングート族のもとの姓は、拓跋氏です。西夏の建国者の李元昊は、自分の一族は北魏(386年~534年)の拓跋氏の末裔と自称しています。しかし、これは箔を付けるための自称に過ぎないと思われます。
ただし、彼の祖先が拓跋氏であるのは本当の話です。おそらく偶然、姓が一緒だったのでしょう。
タングート族は唐(618年~907年)の第2代皇帝太宗の懐柔策により、唐に服属していました。この時に拓跋赤辞が、王室から〝李〟姓を賜りました。
後に唐の権威が弱まり、乾符2年(875年)に黄巣の乱が起きると、タングート族は反乱鎮圧に従軍しました。反乱鎮圧の功績により酋長の拓跋思恭は、王室から節度使の位と〝李〟姓を賜りました。
以降、彼の一族がタングート族を世襲していくことになります。
タングート族の内紛と李継遷の反乱
北宋の第2代皇帝太宗の太平興国7年(982年)のことでした。タングート族の酋長の李継筠が亡くなりました。その弟の李継捧が後を継ごうとするも、一族から反対者が多く出て内紛になりました。
李継捧は仕方なく、領地を与える代わりに北宋に保護を求めました。承諾した北宋も李継捧を保護して、タングートの地に官吏を派遣しました。ところが、李継捧の族弟の李継遷が、北宋の保護下で過ごすことに不満を持っていました。
李継遷は反乱の準備をしましたが、これは北宋に察知されて襲撃を受けました。逃亡した李継遷は、再び部下を集めて北宋に反乱を起こしました。
李継遷が反乱を起こした時期は、北宋と遼(916年~1125年)が交戦中の時期でした。
李継遷は遼と姻戚関係を結び、援助を受けて北宋を苦しめました。北宋は一時期、李継遷に対して官爵を与えることで懐柔作戦を試みました。李継遷も最初は従っていましたが、すぐに反旗を翻しました。
それどころか、北宋の保護下で大人しくしていた李継捧まで反抗を始めました。李継捧は間もなく捕縛されましたが、李継遷は定まった城中におらず、砂漠を転々と移動する作戦で逃げ回り北宋を苦しめました。
末裔はミ・ニャク族?それともチャン族?
タングート族はその後、李継遷の子の李徳明の時代の平和政策で一時期は回復しました。しかし、李徳明の子の李元昊の時代に西夏を建国して、北宋と再び戦争となりますが滅亡は免れます。
やがて時は流れて西夏は南宋の宝慶3年(1227年)に、モンゴルのチンギス・ハンの攻撃を受けて滅亡しました。ところで、その後のタングート族はどうなったのでしょうか。
この世から姿を消したのでしょうか。
「安心してください、生きてますよ」
とにかく明るい安村のネタは、古かったですね・・・・・・
とりあえず、まじめに執筆します。
チベット系の〝ミ・ニャク族〟が西夏のタングート族の末裔に当たるようです。なぜかと言いますと、チベットでは西夏を総称して、ミ・ニャクと呼んでいるからです。
西夏語は難しいので詳細な解説は省きますが、どうやら漢文献の〝弭葯〟〝弭薬〟の2つの言葉が発音では「ミ・ニャク」に当たり、その意味はタングートに当たるからだそうです。
しかし、ミ・ニャク族については情報量が少なくて、どういう部族なのか筆者も分かりません。
調べてみると、もう1つ西夏の末裔と言われているものに〝チャン族〟というのがいます。
チャン族はもともと、単一民族ではなく、3000年以上前の殷周時代から存在している民族です。言語から、現在はチャン族がタングート族に近いという説が有力のようです。
宋代史ライター 晃の独り言
タングート族が栄えた期間は短かったですが、立派なナショナリズムを持った民族だと思います。
いつかまた、この世に李元晃のようなナショナリズムを持った民族が出る日はあるのでしょうか?
※参考文献
・西田龍雄「西夏王朝の性格とその文化」(『岩波講座世界歴史9』(岩波書店 1970年)
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