明智光秀は天海となって徳川幕府に参加していた!その理由とは?

2019年3月13日


 

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燃える本能寺

 

本能寺の変で織田信長(おだのぶなが)を暗殺することに成功した明智光秀(あけちみつひで)。彼は織田信長を殺害した後、織田家の勢力を吸収して天下を手に入れます。しかし明智光秀はライバル・羽柴秀吉(はしばひでよし)に山崎の戦いで秀吉に敗北。

 

その後光秀は本拠地へ逃亡を図ろうとしている所を落武者狩りをしている農民の攻撃によって討ち死にしてしまいます。しかし明智光秀が生き残っている伝説があるのをみなさまはご存知でしょうか。

 

明智光秀は落武者の攻撃で討ち死にしないで、生き残った伝説について紹介していきたいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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農民の攻撃によって死す「通説」

明智光秀 麒麟がくる

 

明智光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北した後、どのようにして亡くなったのでしょうか。「太閤記」によれば明智光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北した後、落武者狩りをしていた農民の攻撃によって討ち死にしてしまいます。

 

その後明智光秀の首は秀吉のもとに届けられ、京の東山・粟田口あたりに晒されたそうです。こうして天下に明智光秀が討ち死にした事が示されることに。

 

しかし羽柴秀吉が京で晒した明智光秀の首は偽物で光秀が農民の攻撃によって討ち死にしないで、生き残っている伝説が残っているのです。

 

 

 

光秀伝説:天海大僧正として徳川三代に仕えた!?

 

伝説によれば、明智光秀は山崎の戦いで敗北した後、農民の攻撃を受けて討ち死にしないで、生存していたそうです。では明智光秀は生き残ってどうしていたのでしょうか。

 

徳川家康

 

それは明智光秀が天海大僧正として、徳川家康(とくがわいえやす)~徳川三代将軍・徳川家光(とくがわ いえみつ
)
まで仕えていたそうです。天海大僧正(てんかいだいそうじょう)とはどのような人物なのでしょう。

 

天海大僧正は徳川家康に仕え、主に京都の朝廷との交渉事に尽力したり、大坂の陣の原因となった方広寺事件にも関与していた人物です。このように徳川幕府で活躍した天海大僧正ですが、明智光秀が天海大僧正へ変身してもおかしくない根拠がいくつかあるので紹介しましょう。

 

if三国志

 

 

明智光秀が生き残って天海大僧正になった根拠:日光にある土地の名前に「明智平」と着けた

 

明智光秀が生き残って天海大僧正になった根拠その1としては日光に「明智平」と付けられた名前の土地があることです。この日光にある「明智平」と名前を付けたのは天海大僧正だそうです。

 

しかし天海大僧正が「明智平」と名付けた確定的な根拠があるわけではありません。でもそれを否定できるほどの強い根拠も今のところないそうです。

 

もし天海大僧正が命名したのであれば、明智光秀が生き残って天海大僧正として徳川家康に仕え、自分が生きた証を後世に残したかったのかもしれません。

 

 

戦国史ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

今回は明智光秀=天海大僧正へ変身した伝説や伝説の根拠について紹介しました。でも天海大僧正=明智光秀の根拠がひとつだけだとちょっと物足りないのでもう一つ明智光秀が生き残って天海大僧正になった根拠の一つを紹介したいと思います。

 

それは天海大僧正の亡くなった時の年齢です。天海大僧正は100歳を超える長寿だったそうです。

 

明智光秀のが山崎の戦いの後で農民に殺された時、「明智軍記」によると55歳だったそうです。しかし最近の研究によれば、天文9年(1540年)だったの可能性が示唆されています。

 

もしこの天文9年(1540年)説が正しいとするならば、明智光秀が亡くなった時の年齢もかなり若くなります。そして光秀伝説が正しいと仮定するのであれば、天海大僧正になって徳川家康に仕え、三代将軍・家光の治世に亡くなったとしても辻褄が合うのではないのでしょうか。

 

もし光秀が生存していたと仮定し、天海に変身して家康へ仕えた場合、天海が亡くなるまでの年齢を考えると光秀=天海と考えることもあながち不可能ではないと思うのですが、みなさまはどのように思いますか。

 

・参考: 信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた (双葉新書)

 

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麒麟がくる

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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