契丹は4世紀から14世紀にかけて満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧のモンゴル系の民族です。10~12世紀世紀前半に遼(916年~1125年)という王朝を建国しました。
一時期は北宋(960年~1127年)を圧倒するほどの驚異的な存在でした。しかし、北宋の第8代皇帝徽宗の宣和7年(1125年)に北宋と金(1115年~1234年)の連合軍により滅ぼされました。
その後契丹は、金やモンゴルにより取り込まれていったようです。ところで契丹には、「契丹文字」という独自の文字が存在します。
どのような文字なのでしょうか。今回は契丹文字について解説致します。
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遼の太祖の発案
契丹文字の発案者は遼の初代皇帝太祖です。太祖は契丹統一前から、中国の内地に侵入して漢人を捕虜にしていました。
理由は農耕従事と漢人のインテリを登用して国家に服属させることでした。太祖の計画は成功して、契丹は着実に力を付けていきました。
しかし、太祖は漢人を登用しても契丹固有の武力と文化を忘れるわけではありません。そこで思いついたのが契丹固有の文化である「契丹文字」でした。
契丹文字は大字と小字の2つあります。
大字を太祖、小字を耶律迭刺を分業して担当
大字は太祖が、小字は太祖の弟の耶律迭刺が担当しました。耶律迭刺はウイグル語を20日で習得するほど語学に堪能だったので、ぴったりな仕事でした。
文字の創作は民族の独立と不滅を願っています。
日本人研究者の挑戦と解読
実は契丹文字は100年ほど前までは、中国の古書の中に伝えられたわずか数文字しか知られていませんでした。その後、西洋の学者の間で研究が行われましたが、あまり解読が進みません。
さて、時が流れて中華民国21年(1932年)のことでした。
奉天の張学良の屋敷に遼の皇帝の墓誌名数10個の存在が確認されました。その墓誌名の拓本をはじめて日本に紹介したのが、京都大学教授の田村実造氏でした。
甲骨文研究で有名な学者の羅振玉の息子の羅福成の協力により、この拓本は出版されました。
書籍名は『遼陵石刻集録』です。
この出版は大成功して、日本・中国・西洋の学者の好奇心を刺激することになりました。出版後、契丹文字に対しての関心が世界中で高まりました。前述の田村氏や満州医科大学教授の黒田源次氏は、現地に到着すると陵墓の構造や壁画についての調査を行いました。
こうして諸学者の研究により、複雑な契丹文字のことが少しずつ分かってきました。
諸学者の研究により契丹文字で解読できたこと
(1)複雑な形であるが、実は200個あまりの原字をいくつかずつ組み合わせたもの。
(2)原字は発音を現すものであるが、なかには象形文字もあること。
(3)漢字との比較から所有格を示す文字があること。
さらに順天堂大学教授の村山七郎氏は、契丹文字を従来考えられたいたウイグル文字ではなく、突厥文字に基づくものとして考えました。さらに、契丹後はモンゴル語系に属するものと試みました。
これは非常にユニークな研究として注目されました。
さらに、田村氏は京都大学教授の小林行雄氏と共同で、契丹語の文法について研究をしました。
現在も続く契丹文字の解読研究
しかしこれだけの成果を挙げたにも関わらず、契丹文字の解読は現在まで、ほとんど進んでいません。現在、契丹文字の大字は1600~1700字の確認はされています。ところが、解読できたのは188字程度でした。一方、小字は6割の解読に成功したようです。
契丹文字は漢字をもとに創作したと推測されていますが、中には漢字とは似てない文字も存在します。それらの文字がどのような意図で創作されたのか謎とされています。
今後の研究に期待したいです。
宋代史ライター 晃の独り言
契丹文字の解読は昔から多くの学者が挑みましたが、解決を出来ずに今日に至っています。ちなみに筆者は高校時代に、学者を志しており、契丹文字を解読したいと思っていました。
大学に入学して調べてみると、あまりの難しさに断念しました(笑)
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