西夏(1038年~1227年)は現在の中国の甘粛省・寧夏回族自治区に建国されていた王朝であり、他の名前ではタングート族と呼ばれていました。
北宋(960年~1127年)の第4代皇帝仁宗の時代には戦争を行うほどの対立関係でした。南宋(1127年~1279年)建国後も対立していますが、北宋ほどの状態ではありません。ところで、タングート族が北宋と争っていたものに「塩」があります。
塩は現在はスーパーやコンビニでもお手軽に手に入ります。しかし、昔は国の専売物で簡単に手に入れませんでした。
今回はタングート族必需品の青白塩について解説いたします。
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宋代の塩について
実は歴代の王朝では塩は国家が管理していました。要するに専売物です。北宋も統一時にそれは定めていました。
ただし、国家が売っていた塩の大半は質の悪いものばかりでした。
しかも値段が、民にとっては法外な額でした。民にとって嬉しかったのは、闇商人の「闇塩」でした。嘘かもしれないですけど彼らの作る塩の方が質が良かったのです。民はそのため、闇商人を匿って塩を買っていました。
『水滸伝』の宋江やその仲間は典型的な闇塩商人です。
北宋やその後の歴代の王朝も、この闇商人の取り締まりにはかなり苦労しました。
タングート族の青白塩
さて、話が逸れたのでタングートの塩の話に行きます。タングート族が作っていた塩は青白塩と言います。
青白塩は現在の陝西省から寧夏回族自治区でとれていたものです。
タングート族にとって重要な貿易品でした。タングート族の生計は、青白塩で成り立っていたのです。ところが、乱世の五代十国(907年~960年)が終了して北宋が統一すると、塩は北宋の専売物にされました。おかげで、タングート族にとっては経営がやりづらくなりました。
また、北宋の第2代皇帝太宗の太平興国7年(982年)にタングート族の酋長の李継筠が亡くなって、弟の李継捧が後を継ごうとするも反対が出ました。
おかげでタングート族は内紛になりました。
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青白塩の輸入禁止
その後、李継捧の族弟の李継遷が北宋に対して反乱を起こしました。李継遷が反乱を起こした時は、北宋と遼(916年~1125年)が戦っている最中です。北宋は遼と戦うも何度も手痛い目にあって追い返されています。
北宋は李継遷に官爵を与える懐柔策を試みますが、またすぐに反乱を起こされるので意味の無い戦いが続きました。李継遷に領土を奪われた北宋は、チベット系の西蕃族に李継遷の討伐を依頼しました。
西蕃族との戦闘により李継遷は命を落としましたが、タングート族の戦いはまだ終わりませんでした。李継遷存命中に北宋が出した作戦は経済封鎖でした。
タングート族の経営は青白塩で成り立っていることは前述した通りです。
北宋は青白塩の輸入を完全に禁止しました。おかげで、李継遷たちは困ったので北宋の作戦は成功しました。
しかし、これには難点もありました。
困るのは李継遷たちだけではありません。他のタングート族も一緒です。彼らまで一斉に敵に回ったのです。
おかげで、北宋は不利になり一時は経済封鎖が解禁になりました。
ところが、それをすれば李継遷が押し返してくるので意味がありません。
ただのイタチごっこです。
李徳明の青白塩交渉
李継遷の死後、子の李徳明が後を継ぎました。李徳明は、すぐに北宋に和議を申し入れました。
さらに、李徳明が行ったことは戦争からの復興政策でした。李継遷が行った戦争でタングート族はだいぶ傷ついていました。
李徳明は青白塩の輸入禁止の撤回を再三に渡り北宋に求めました。
しかし、北宋は「1度無くした信用を取り戻すのは、最初に信用を作るより大変なんだ。」という感じで絶対に認めませんでした。
『闇〇ウシジマくん』のセリフと気付いた読者はどれ位いたことやら・・・・・・
宋代史ライター 晃の独り言
今回はタングート族と青白塩問題について解説しました。李徳明の死後、子の李元晃が父の北宋への従順政策に反対して立ち上がります。
それはまた別の話です。
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