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渤海国とはどんな国?謎の王国・渤海国の建国までを分かりやすく解説

2019年4月8日


 

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丸木舟(弥生時代)

 

渤海国(ぼっかいこく)(698年~926年)とは朝鮮方面にあった王国です。日本とも交易(こうえき)した形跡(けいせき)が史料に残されています。

 

耶律阿保機

 

ところが、西暦926年に契丹(きったん)(後の(りょう))の初代皇帝の耶律阿保機(やりつあぼき)により滅亡させられました。その際に、様々な記録や遺物が失われたので、今日では渤海国は謎の王国とされています。

 

今回は謎の渤海国について解説致します。

 

自称・皇帝
当記事は、
「渤海国とは」
「渤海国 建国」
「渤海 (国)」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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高句麗が滅びる

高句麗まで攻めるカン丘倹

 

(とう)(618年~907年)の第3代皇帝高宗(こうそう)総章元年(そうしょうがんねん)(668年)に朝鮮に君臨していた大国の高句麗(こうくり
)
(前37年~668年)滅亡しました。高句麗は(ずい)(581年~618年)の第2代皇帝煬帝(ようだい)が3回に渡り遠征を行いましたが全て失敗しました。

 

また、隋が滅んで唐に代わっても遠征軍は派遣されていますが、その時も失敗しています。中国にとっては常にやっかいな存在でした。しかし、何度も遠征軍を跳ね返すうちに国力が尽きてきたようです。

 

さらに、唐の龍朔(りゅうさく)3年(663年)に唐と新羅(しらぎ)(前57年~935年)が連合して、日本と百済(くだら)(前18年~660年)の残党政権の連合を打ち破った「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい
)
」で高句麗はますます追い詰められたのです。

 

結局、どうすることも出来ずに高句麗は白村江の戦から5年後に滅ぼされたのです。

 

 

 

流刑地の反乱

三国志のモブ 反乱

 

しかし、高句麗が滅んでも唐はやはり不安です。いつ、残党が王族の1人を担ぎ出して反乱を企てるか分かりません。そこで唐は高句麗の王族出身者を営州(えいしゅう
)
(現在の熱河省(ねっかしょう
)
)に行かせました。

 

これで一安心です。ところが、実はこの営州という土地は高句麗の人だけではなく、様々な罪人がいました。要するに流刑地です。

 

住んでいる人々は唐に対して不満を持ちながら過ごしていました。やがて時は流れて、唐は則天武后(そくてんぶこう)により中断されて「(しゅう)」という王朝になっていました。反乱はその周の時代に起きました。

 

周の万歳通天(ばんざいつうてん)元年(696年)に契丹人(きったんじん
)
李尽忠(りじんちゅう)が反乱を起こしました。それに呼応して乞々仲象(きつきつちゅうしょう)も反乱に加わりました。

乞々仲象・・・・・・凄い名前ですね。

 

まさか、キラキラネームですか?

 

実は違うのです。どうやら名前に当てはまる漢字が分からないので、適当に書いたらしいです。漢字の発音をそのまま中国語で読んでも「チーチーチェンシィーアーン」です。

 

意味不明です。

 

北宋・南宋

 

 

振の建国

 

さて、周は反乱が起きて参ったので早速討伐軍を派遣しました。討伐軍により李尽忠や他の反乱軍は討たれましたが、乞々仲象の軍だけは無敵でした。

 

何回軍を派遣しても乞々仲象には勝てないので、周も放っておくことにしました。その後、反乱軍は建国を決めました。

国号は「(しん)」と決めました。ただし、初代国王は乞々仲象(きつきつ ちゅうしょう)ではありません。

 

乞々仲象はどうしたのでしょうか。彼は周の聖歴(せいれき)2年(699年)にはこの世を去っていました。王になったのは息子の大祚栄(だいそえい)でした。頑張ったのに王になれなかったのは可哀そうな気もします。大祚栄が建国した振こそ、後の渤海国です。

 

周はその後も大祚栄に対して、軍事的圧力や経済封鎖等の対策を打って出ます。だが、どれも効果は出ませんでした。やがて、則天武后が死んだことにより周は1代で消滅して唐が再び復活しました。

 

玄宗皇帝

 

唐の第6代皇帝玄宗(げんそう)開元元年(かいげんがんねん
)
(713年)に唐は大祚栄の独立を正式に認めました。これにより、振は渤海国と名称を改めました。渤海国という名称は、唐と振の妥協の産物と言えるでしょう。

   

 

宋代史ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が渤海国建国までの流れです。

渤海国に関しては他にも謎に包まれた内容があるのですが、それに関してはいずれお話します。

 

※参考文献

渤海国の謎―知られざる東アジアの古代王国 (講談社現代新書)

 

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