渤海国(698年~926年)とは朝鮮方面にあった王国です。日本とも交易した形跡が史料に残されています。
ところが、西暦926年に契丹(後の遼)の初代皇帝の耶律阿保機により滅亡させられました。
その際に、様々な記録や遺物が失われたので、今日では渤海国は謎の王国とされています。ところが、この王国に関しては様々な謎が残されており、今日まで論争が続いています。
どのような内容でしょうか。論争が絶えない渤海国の謎に迫りたいと思います。
「渤海国 謎」
「渤海国 滅亡」
などのワードで検索する人にもオススメ♪
関連記事:渤海国とはどんな国?謎の王国・渤海国の建国までを分かりやすく解説
関連記事:貨幣や紙幣は宋代に誕生したの?宋代の経済生活を分かりやすく解説
この記事の目次
建国者の謎
一般的に建国者は大祚栄と知られています。現在の世界史の教科書の記述でも大祚栄です。この大祚栄をめぐって論争がありました。渤海国建国以前に反乱を起こした人物に乞々仲象という人物がいます。
一般的には大祚栄の父と言われています。ところが、大祚栄と乞々仲象をめぐって論争が行われました。
(1)親子説
先ほどから述べている一般的な説です。『新唐書』という書物に記されていることが理由です。『新唐書』の編纂者は北宋(960年~1127年)中期の官僚で欧陽脩や彼の知り合いが関わっていました。
しかし客観性が乏しく、史料価値はそれ以前に執筆された『旧唐書』に劣ると言われています。また、『旧唐書』には大祚栄と乞々仲象が親子だったという記述は出てきません。
そのため、大祚栄と乞々仲象の親子説は本当か分からないようです。
(2)同一人物説
これがもう1つの説です。『旧唐書』に親子関係の記載が無い点から出た説です。おそらく、乞々仲象が本名であり、大祚栄は建国後の漢名と言われています。しかし、確たる証拠はありません。
(3)血縁関係ゼロ説
大祚栄と乞々仲象は親子ではない、全くの赤の他人という説です。しかし、これも確たる証拠はありません。とにかく建国者に関しては謎ばかりなのです。
滅亡の謎
渤海国は西暦926年に滅亡するのですけど、これ以降史料が全く残されていません。首都の上京龍泉府の発掘も行われたのですが、思った以上の発見が現在までされていません。このためなのか、渤海国の滅亡は何か別の原因があったのではと考えられました。
昭和63年(1988年)にNHKが渤海国の滅亡に関して取り上げて放送を行いました。これは極めて珍しい例です。しかしながら、結末は白頭山の大爆発で都は滅び去ったといかにも視聴者が喜びそうな結末です。
要するにポンペイ遺跡と一緒にしたいのです。しかし、科学的に証明することが無理だったらしく仮説だけで終わっています。やはり、渤海国は史料に残されているように、契丹に滅ぼされて滅茶苦茶に荒らされたのが正しいのでしょう。
そのことは歴史書の『遼史』に記録されています。また、日本に来た裴璆が証言しています。裴璆は渤海国に仕えた人物であり、渤海国滅亡後に契丹が一時的に建国した東丹国に嫌々仕えました。その時に、日本に使節として派遣されています。
派遣された裴璆は、契丹の悪口を言ったので朝廷から不評を買います。ところが、藤原雅量は分かってあげて交流を深めました。この事は日本の『扶桑記略』・『扶桑集』という書物に残されています。
宋代史ライター 晃の独り言
以上が、渤海国の謎に関してです。渤海国の謎と言っても大したものではないのですよ。史料をしっかり読み解けば、出てきそうなものばかりです。
なぜ謎だと思うのでしょうか?それはみんな、考えることが面倒だからです。
考えることが面倒臭いから謎ですまそうと思うのです。考えろ。方法はあるはずだ。
えっ、『鋼の錬〇術師』のセリフで話を終えるなだって?
格好良く決めさせてよ・・・・・・
・渤海国の謎―知られざる東アジアの古代王国 (講談社現代新書)
関連記事:契丹民族の独立までの道のりと初代皇帝・耶律阿保機の略奪戦略とは?
関連記事:【謎の国】東丹国と悲劇の国王・耶律突欲はどんな生涯を送ったの?