今回は織田信長の経済力を支えた湊町・津島について紹介します。この記事の最初に、織田信長の父親である織田信秀について紹介します。次に、織田信秀が家臣・守護大名にのし上がるまでの過程と津島の湊との関係について取り上げます。
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織田信長の父・織田信秀とはどんな人?
織田信秀は1511年に尾張三奉行の一人である織田信定の嫡男として生まれました。当時、織田家は尾張国奉行ということで、立場は大名の家来の家来という立場でした。当時、尾張国の守護大名は室町幕府の三管領の1つである斯波氏で、下剋上で守護大名を倒せる立場にはありませんでした。
信秀の父である織田信定が勝幡城を築くと、伊勢湾に近い木曽川近くにある津島神社と門前町の津島を手に入れました。津島は門前町だけでなく水運貿易都市としても繁栄していました。後に織田家の経済的基盤となります。
織田信秀は尾張国の中で守護大名や守護代でないにもかかわらず、津島の経済的基盤を背景に天皇家や伊勢神宮に大金を寄附しています。尾張国内で勢力を広げ始めましたが、当時の尾張国に駿河国の大名今川義元が勢力を伸ばしていました。
信秀は今川義元の弟が城主だった那古野城を落とします。信秀は美濃国の大名斎藤道三と戦うまで勢力を伸ばしますが、斎藤道三の反撃や第二次小豆坂の戦いで形勢が不利になり、陰りが見えました。
斎藤道三とは和睦を結び、婚姻関係を結ぶことになりました。この婚姻で濃姫は織田信長に嫁ぎました。小豆坂の戦い後、織田家が支配していた三河国を奪われ、当時人質だった松平元康(後の徳川家康)を今川義元に引き渡すことになりました。
今川義元の勢力や織田家の内紛で勢力がなくなっていく中、織田信秀は病気で死亡しました。信秀の家督は嫡男の織田信長が継ぎました。信長は1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破ると、美濃国の斉藤龍興を倒し、天下統一への足がかりとなりました。
門前町・津島とはどんな町?
津島は愛知県西部の津島市にある津島神社の門前町として栄えました。鎌倉時代から木曽三川を渡って尾張と伊勢を結ぶ湊町としても栄えました。湊町津島の近くにある津島神社は西暦540年に建立されたと伝えられています。津島神社は神仏習合の神である牛頭天王を祭っています。
津島神社へのアクセスは次の通りです。名鉄で名古屋駅から25分で津島駅に行くことができます。津島神社の最寄り駅は名鉄津島駅で、徒歩15分の場所にあります。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は織田信長の経済的基盤となった津島神社の門前町である津島について紹介しました。この記事を通して、津島が湊町であり、織田信長の祖父の代から経済的基盤となったことも分かりました。また、この記事を通して織田信長の父・織田信秀が三河国まで勢力を伸ばしていたことや美濃国の大名斎藤道三と戦っていたことも分かりました。
織田信秀が勢力を伸ばしますが、今川義元に三河国を奪われた後に信秀が亡くなり、嫡男の織田信長が跡を継ました。今川義元は信秀から三河国を取り戻すことができましたが、かつて今川義元の弟が城主だった那古野城を奪うことはできませんでした。
桶狭間の戦いについて今川義元の動機を記した史料は発見されていませんが、那古野城の奪還が動機として考えられるのかもしれません。この記事では取り上げていませんが、今川義元は織田信長の初陣を見て警戒したといわれています。尾張の小大名に3万の大軍を率いて攻めた動機については不明な点がありますが、今川
義元が尾張の織田信定から信長まで3代にわたって警戒していたのかもしれません。今後の織田信秀・信長親子と今川義元との関係に関する研究について注目したいと思います。
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