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【キングダム】王騎は実在する将軍?その偉大な功績とは?

2019年4月19日


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キングダムのレジェンド武将王騎(おうき)、当初は筋肉質のデカブツ(くちびる)お化けとして登場し不気味要員として静かな人気を得ていました。

 

 

矛を持った信

 

それが、主人公信の素質を見出し飛信隊という名前と部隊を与えて信の師匠とも言える存在になってからあれよあれよという間に大人気キャラクターになったのです。

 

 

キングダムの王騎

 

何より普段のオカマ口調からは想像もつかない、かつてフィアンセを龐煖(ほうけん)に殺された過去や、戦場では無類の存在感を示し兵士に慕われている様子は、まさにカリスマ。

 

 

その最後のシーンでは、王騎ロスという現象まで起きました。そんな王騎は実在する将軍ですが、史実の王騎はどんな功績を残したのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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王騎は実在する?モデルになった王齮と王齕

王騎 キングダム

 

キングダムの登場人物には架空の人も多いですが、王騎は実在の人です。

 

司馬遷(しばせん)が編んだ史記には、王騎に比定される人物として王齮(おうき)王齕(おうこつ)が登場します。両者は別人説もありますが、漢字の意味や発音までが似ているので、同一人物であったものが何らかの理由で別人として扱われたという説が1500年以上前の南北朝(なんぼくちょう)時代から存在します。

 

そこで、この記事でも王騎=王齮+王齕として紹介していきます。

 

 

王騎は趙攻略に尽力した実在将軍

劉備の黒歴史

 

では、実在する王騎(おうき)(しん)の歴史でどのような貢献をしたのでしょうか?

 

春秋戦国時代の白起、デビュー戦から大殺戮

 

それは二つあり、当時、秦に対抗しうる存在だった(ちょう)を叩き長平の戦い(ちょうへいのたたかい
)
で趙の兵卒40万を穴埋めして殺した点、もう一つは趙を攻略する重要拠点として上党を奪取しその後の王翦の(ぎょう)攻略の布石を造ったという点があります。

 

紀元前260年、王齕は趙を討って上党を取った。趙の反撃に対し秦では内密に白起(はくき)を増援させて上将軍とし王齕をその副将とした。長平の戦いでは趙を大いに破った。

 

白起(春秋戦国時代)

 

このように、王騎は上党を奪取しその後反撃に転じた趙軍に対して名将白起(はくき)を総大将に王騎は副将になり長平の戦いで功績を立てているのです。

 

 

剣を持ち戦う李牧

 

キングダムでは、趙は今でもかなり強大ですが、史実の趙は長平の敗戦でほぼボロボロになり、李牧(りぼく)がやや巻き返すものの再起は叶いませんでした。

 

 

楚の旗と兵士

 

史実の六国で秦に対抗できたのは、僅かに趙と()くらいであり、その一国の趙を瀕死に追い込んだ王騎は名将だと言えるでしょう。

 

 

—熱き『キングダム』の原点がココに—

春秋戦国時代

 

 

王騎実在、始皇帝にとっては鬼?邯鄲を包囲した王騎

兵士 朝まで三国志

 

長平の戦いで趙を壊滅に追い込んだ秦は、さらに勢いを得て紀元前258年に趙の王都である邯鄲(かんたん)を包囲します。しかし、趙としても邯鄲が落ちればオシマイなので頑強に抵抗しました。包囲軍の司令官の王陵(おうりょう)は持て余し、秦は司令官を王齕に変えます。

 

紀元前258年王陵が趙の邯鄲を攻めて増軍もしたが、戦況が思わしくないので王齕が代わって将となる。

 

ところが、それでも邯鄲は落ちず、一年以上の包囲の末に諦めた王騎は、汾城(ふんじょう)郊外の秦軍と合流しました。

 

 

趙で生まれた政

 

面白いのはこの頃、邯鄲には生まれたばかりの秦王政(しんおうせい)が人質としていた事です。当時の秦王にとって政は曾孫(ひまご)に当たりますが、政は百名以上いる王族の一人で幾らでも替わりがいる、殺されても惜しくない存在だったのです。

 

同時に王騎も自分が邯鄲を包囲した結果、人質の政が殺されても仕方ないと考えていたでしょうから、なかなか非情です。

 

 

王騎実在、転んでも無料では起きない

三国志のモブ 反乱

 

邯鄲を落とせなかった王騎ですが、転んでも無料(ただ)では起きません。

 

荒れる黄河

 

行きがけの駄賃(だちん)に魏を攻めて六千人の魏兵を斬首し、さらに二万人の魏兵が敗走して黄河に飛び込んで溺死(できし)しました。さらに王騎は、汾城を攻め落とし次には張唐と組んで寧新中(ねいしんちゅう)を抜いています。

 

紀元前257年邯鄲を攻めたが落とせず汾城郊外の秦軍と合流した。その後、魏を攻め、魏兵の斬首六千、魏軍は敗走し、黄河で二万人が溺死した。汾城も攻め落とし張唐に従って寧新中を抜く。

 

 

このように王騎は経験豊かな将軍らしく、敗戦しても敗戦のままで終らない実に強かな男だったのです。

 

 

 

王騎実在、上党を再奪取して秦の直轄地にする

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

王騎の名が再度登場するのは、紀元前247年で10年後です。

 

昭襄王

 

この間に生涯を戦争漬けで過ごした秦の昭襄(しょうじょうおう)は五十五年の在位を全うして崩御(ほうぎょ)。その後を継いだ孝文王(こうぶんおう)も僅か3日で崩御、秦王は始皇帝の父であった子楚(しそ)が即位し荘襄王(そうじょうおう)になります。

 

秦にとっては不安定な時期でしたが、王騎は(かん)の上党を攻めて陥落させそこに秦は太原郡(たいげんぐん)を置いて直轄支配(ちょっかつしはい)に入ります。上党は紀元前260年に一度、王騎が攻め獲っていますがその後色々あり韓の所有になっていたようで、ここで秦が再奪取したようです。

 

王翦

 

以後、上党が敵軍の手に渡る事はなく王翦(おうせん)の鄴攻めも上党が拠点になります。上党は鄴も邯鄲も近い趙の喉元に突きつけられた刃であり、秦がここを領有しているのと太行山脈を越えて軍を送るのは雲泥の差です。これは王騎が確かな戦略眼を持っていた事を意味します。

 

 

王騎実在、合従軍に遭遇し敗れる

函谷関

 

順調にキャリアを積み重ねた王騎にピンチがやってきます。

 

信陵君

 

紀元前247年、秦に攻められっぱなしだった魏に信陵君(しんりょうくん)が帰還して兄王と和解。それを知った五カ国は、続々と魏に援軍を派遣しました。信陵君は、魏ばかりではなく、趙・韓・楚・燕のような諸国の軍隊も統率して何十万という大軍で秦に攻めこみます。

 

五カ国連合軍を率いて秦を攻める春申君

 

当時、秦は一強の横綱相撲をしていましたが五カ国が連合しては不利でした。王騎は同僚の蒙驁(もうごう)と合従軍を迎え撃ちますが勝てずに押しまくられて函谷関(かんこくかん)以東の全ての支配地を放棄してしまいます。

 

ただ、さしもの五カ国連合軍も難攻不落の函谷関を落とす事は出来ず秦を滅ぼすには至りませんでした。

 

 

王騎実在、蒙驁、麃公と共に秦王政の将軍となる

政(始皇帝)

 

王齕(おうこつ)の記録はここで終りますが、紀元前246年今度は王齮が史実に出現します。

 

紀元前246年(秦始皇元年)秦王政即位、蒙驁、麃公らと共に将軍に任じられる

 

このように王騎は、蒙驁、麃公(ひょうこう)という当時の有力な将軍と並んで即位したばかりの秦王政の将軍になっています。蒙驁はキングダムでは凡庸な将軍とされていますが、実際は白起に匹敵する名将で生涯に七十余りの城を落としていますし、麃公は韓を攻めて斬首3万という実績のある将軍でした。

 

これらの将軍と並ぶという事は、相応の実績を評価されたと言えるのではないかと思います。

 

 

キングダムの政

 

秦王政から見れば、王騎は幼少期の自分を無視して邯鄲を包囲した相手ですが、やはり赫々(かくかく)たる戦歴があるので即位したばかりの政は、これを無視できなかったのです。この辺りは、自分に利があれば流民にもへりくだると言われた秦王政の人材登用の妙があると言えるでしょう。

 

王騎実在 紀元前244年王騎死ぬ

 

しかし、王騎のさらなる活躍はありませんでした。

 

紀元前244年同僚の蒙驁が韓を攻め十三城を取る王齮死没

 

秦王政は即位すると蒙驁や麃公を使い、信陵君に奪い返された領地を奪回しようと韓や魏を攻めて城を奪回していますが、王騎も蒙驁と共に韓を攻めて、その途中に亡くなっているようです。これが戦死や病死か、或いは寿命なのかは分かりません。

 

王騎としては、信陵君(しんりょうくん
)
に奪還された領地を奪い返そうと闘志満々だったでしょうがその志半ばでの死去という事でしょう。

 

 

キングダム(春秋戦国時代ライター)kawausoの独り言

 

王騎は実在の人物でしたが、特に特筆すべきは白起と共に趙を攻め長平の戦いで趙に致命傷を与え、さらに上党を落として秦の直轄領にする事に執念を燃やした点です。

 

趙の旗

 

前述しましたが、戦国末期の六国で秦に対抗できたのは趙と楚だけでした。

 

剣を持ち戦う楊端和

 

その中の趙に瀕死の大打撃を与え、その喉元である上党を二度も攻め落とした事は紀元前236年に王翦が楊端和(ようたんわ)桓騎(かんき)を率いて鄴を落とす下地を造りました。

 

祁山、街亭

 

上党は秦にとって重要なベースキャンプであり、ここを抑えないと秦は咸陽から遥々太行山脈(たいこうさんみゃく)を越えて趙を攻めないとならず戦争は長引き、果たして王翦でも首尾よく鄴を落とせたか分かりません。

 

史実の王騎は、キングダムの王騎にも劣らない名将であったようです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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