樊城の戦いは荊州で起こった戦いです。荊州は中国でも内地ですが、この内地で「水攻め」という単語が出てきます。
これは精鋭である3万を率いてやってきた于禁軍を関羽軍が降伏させた戦い部分で語られますが、この水攻めには援軍陥落以上に大きな意味がありました。今回はその部分に注目しながら、樊城の戦いを見ていきましょう。
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樊城の曹仁、援軍の于禁軍が受けた関羽の水攻め
樊城に進軍する関羽軍に対し、籠城する曹仁を救援すべく于禁が第七軍を率いて関羽に挑みます。
しかし、陸路を伝って来た于禁は、関羽と違い船を用意できませんでした。この時、折からの長雨で漢水は決壊。辺りは水浸しとなり、船を持たない于禁は関羽に降伏、3万の兵力は関羽の捕虜となりました。この時、同時に捕らえられたホウ徳は降伏を拒否して斬首され、1人だけ捕虜になった于禁の命運は暗転しますが、それは別のお話…
この事態に焦った曹操は必死に兵士をかき集めて、5万という精鋭部隊を揃えました。そしてそれを率いさせたのは曹操と長い付き合いでもある、魏の五将軍とも呼ばれた名将・徐晃。
樊城を包囲した関羽は、徐晃と樊城の曹仁を二正面で相手する事になります。
水攻めは関羽の作戦だった?
この樊城の戦いでの水害を、演義では水攻めとして関羽が起こしたことになっています。ただ正史ではそういった記載はなく、あくまで長雨によって水害を受けて、それを好機と関羽軍が攻撃したことになっています。
また同じく演義では前述した水軍も関羽が作戦のために用意したことになっていましたが、流石に関羽と言えども長雨を呼び寄せる力はないと思いますので、樊城への水路を封鎖するために用意したものでしょう。
ちょっと盛り上がりに欠ける言い方をしてしまいましたが、この水害、水攻めのダメージは「関羽が起こした」よりも実は「偶然引き起こされた」と言う方がダメージが大きいのです。その理由も説明していきましょう。
水攻めには重要な意味が潜んでいた
水攻めはされた方は悲惨です。まず生活基盤が全部崩れます。
寝る場所も飲食もままならなくなり、水に流されて建物は崩れ、流れに乗って木や泥やら流れてきますから怪我もします。それに昔は水洗便所はありませんから…水が流れてきて溢れれば…お分かりですね?
そして汚れた水は病気を蔓延させ、破傷風を招き、諸々によって士気がだだ下がりします。更に今回の水攻めのダメージは、それだけではありません。現代であれば長雨や水害があってもそれは自然現象です。
関羽は幸運だった、于禁や曹仁は運が悪かっただけで済むかもしれませんが、当時の中国は違います。
この時代は「天命」、つまり「神様からの命令」が重要視されていました。長雨はただの偶然ではありません、神様が関羽を勝たせようと起こしたものです。関羽を勝たせようとしているということは、つまり天命は劉備にあるのです。
この精神ダメージこそがこの樊城の戦いで起こった水攻めによる、一番大きなダメージであると筆者は考えています。
勢いに乗っていく関羽軍…
現代であっても、こんな不幸が重なれば心が折れそうになりますよね。そこに更に「天命」が、当時は一般的なものとして多くの人たちに考えられていたのです。魏は落ち込み、そして関羽軍は天命我にありと勢い付きます。
おそらくこの瞬間が一番、関羽軍が士気高揚した瞬間ではないでしょうか。
しかし皆さんご存知、関羽はこの後敗北するだけでなく、斬首になります。圧倒的に有利な状態で、天命さえも味方した状態で、関羽は敗北しました。樊城の戦いと言いますが、おそらく関羽にとって樊城は通過点であり、その後ろにある献帝がいる許が目的だったのでしょう。
しかしその樊城すら落とせないまま、関羽が落としたのは自分の首と命。後に神とまで言われる関羽は、荊州の地に散りました。
三国志ライター センの独り言
結果だけ見れば関羽は敗北者です。
ここまで揃っていても負けた、しかし歴史は結果からだけでは語れません。関羽は最期こそ敗北したけれど、確かに名将であったと思います。
そして樊城の戦いの水攻めには、当時の価値観というものがとても現れているのです。
歴史を見ているとどうしても今の価値観とずれていて分かりにくい箇所もあると思いますが、それをそのままにせずに「その時代の価値観」を知るきっかけにして、より深く歴史を読み込んでみて下さいね。
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