三国志を知っている人には当然のことと言われてしまうかもしれませんが正史三国志と三国志演義があります。この内よく言われるのが「演義は蜀びいき」というもの。
正史のそのままの記述に比べると演義は羅貫中によって脚色され、多くの呉や魏の武将は活躍をなかったことにされたり、対して蜀の武将は活躍を盛り込まれたりしています。このことから「蜀の武将は実はたいしたことない」なんて言われてしまいますが…
今回は樊城の戦いの正史を追っていきながら、蜀の武将の第一人者である関羽の活躍を見ていきましょう。
関羽のイメージは、凄い武将?凄くない武将?
関羽と樊城の戦いと言うと、やはり関羽の戦死が一番に思いつきますよね。
樊城の戦いで関羽は仲間の救援を得られず、敵を捕虜にしてしまったことで窮地に陥り、しかも呉の裏切りに合って敗北してしまいます。
演義の方こそドラマチックな書かれ方をしていますが、正史では淡々とした記述で書かれていることも相まって、演義から見てしまった人は「関羽ってそんなに凄くない…」なんてショックを受けてしまうことも。しかし関羽は本当に凄くない武将なんでしょうか?
そこで関羽の凄さを再確認していくためにも、正史の方に注目しつつ、しかも関羽が敗北する樊城の戦いを見ていきましょう。蜀びいきでない正史、しかも敗北する戦いで、関羽はどのように描かれているのでしょうか?
水軍を持ち込んだ関羽の先見の明
樊城の戦いで関羽は水攻めを行ったと書かれています。演義では天命により水が降ってきて、そこから水攻めを思いついて援軍である于禁を打ち破りました。
じゃあ正史ではそんなことがなかったかと言うと、こちらでもしっかりと水軍を事前に持ち込んでおり、その水軍を利用して于禁を倒したとなっています。
樊城を包囲して戦っていたので、恐らくこの水軍は周囲の川の封鎖用に用意されていたものと思いますが、それでもその水軍を利用して敵の援軍を打ち破ったというのはやはり一門の将です。
樊城の戦いでは最終的に敗北こそしてしまうものの、序盤の関羽の破竹の勢いはやはり見ものであり、于禁を捕縛する件も後で窮地に陥るとはいえ、やはり関羽という武将の強さを表していると思います。
多くの武将が関羽を警戒していた
関羽は荊州の守りを長く任されていました。このため関羽の出番は暫くなく、正史を見ていると関羽の活躍が見られない期間が長くあります。
しかし荊州と言うのは蜀にとってアキレス腱のような大事な場所、そこを任せられるというのはやはり関羽が劉備に信頼されていた証でしょう。
また樊城の戦いで呉と魏が手を組んで関羽を追い詰めますが、これはやはり呉と魏、二つの口が関羽を警戒し、力を合わせないと関羽を倒すことができなかったとも考えられます。
曹操自身も関羽が荊州から攻め上がってきた時に遷都を考えていたほどです。
関羽を打ち取った呂蒙も「関羽を相手に正面から戦うのは得策ではない」と評しています。
関羽は多くの武将、名将たちから警戒され、時に恐怖された武将だったのです。これは決して演義での脚色ではなく、正史での正当な関羽の評価なのです。
やはり関羽は凄い武将だった
三国志には、多くの武将たちが出てきます。その武将たちが大量に出てくるだけでなく、関羽という武将を打ち取るために戦うのが樊城の戦い。最終的に敗北したと言えど、その過程に関羽の凄さが読み取ることができます。
演義では武勇だけでなく軍略もできる人物、しかも義侠心に富んだ人格者と書かれていることが多く、そこから正史を見るとイメージの差異が大きく、最後は味方の離反で敗北することもあって一見すると関羽の凄さが分からなくなり、過大評価されていると言われてしまうこともあります。
しかし正史の、しかも樊城の戦いの中で関羽が数多くの武将たちに警戒され、恐れられていた……それほどまでに評価されているのはやはり、関羽という武将が凄かった、評価されるべき武将であったことの証明なのではないでしょうか?
三国志ライター センの独り言
改めてみると、関羽の凄さが分かりますね。樊城の戦いでは最初こそ破竹の勢いで戦う関羽が、最終的に裏切られ敗北していく様が書かれています。
しかしその記述の中からでもこれだけの評価が読み取れるのはやはり関羽が凄い武将であったから。だからこそ最後の敗北だけに注目せずに、関羽という武将がどれだけ恐れられていたのか、そしてそこにどんな評価があったのかも注目して欲しいですね。
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