一石二鳥、二律背反、三々五々など数字を使った四字熟語があります。しかし、「七縦七擒」の意味を理解している三国志ファンは少ないでしょう。理由は漢字が後漢時代のままだからです。
現在の漢字と異なる用法なので古語を勉強しているようなイメージ。それでは孟獲目線で七縦七擒のストーリーを紹介していきます。
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孟獲って、どこの人?
名前からして漢王朝の人物ではありません。孟獲の生まれは益州建寧郡、現在の雲南省辺りです。現在ではコーヒーの栽培ができるほど南にある暖かい地域ですから、朝廷の支配は及んでいても緩いものでした。
妻は祝融と言い、彼女は架空の人物です。
孟獲は大柄なキャラで描かれ、少数民族が多い山間部であったことから、ゲーム『三國無双』では羽飾りをかぶっていたりします。実在した人物で三国志演義にも登場します。
レジスタンス運動をした孟獲
孟獲は地元の豪族でしたから、劉備や孫権の力が及ばないような山あいでも権力を奮っていました。諸葛亮が南方を攻めることは20世紀のヴェトナム戦争のような状況だったのです。当時、中国の南方には「雍闓」という権力者がいました。彼は劉備の死後、蜀に従うのを嫌がり、抵抗してきました。
そんな折り、呉の孫権から雍闓は永昌太守に任命されます。彼の心の中で呉への仲間意識が芽生えるのです。ほどなく高定とともに永昌の地を攻撃。ところが、郷土の勇士・呂凱に阻止されてしまいます。
ここでチャンスとばかりにしゃしゃり出てきたのが諸葛亮です。劉備の後を継ぎ、蜀の実権を握っていました。勇み足で雍闓討伐へと向かいます。
そこで事件は起こります。リーダー格の雍闓が部下に殺されてしまうのです。まもなく孟獲が彼の後を継ぎます。諸葛亮の進軍に対し、地の利を生かしてレジスタンス運動を始めるのです。
原住民をはじめ、朶思大王・木鹿大王・兀突骨が孟獲に賛同します。
かくして南方軍事同盟が結成され、諸葛亮撃退へと南方の地が奮い立つのです。
孟獲が使った不死の術とは?
現在も先住民の間で語り継がれる逸話に孟獲の「不死の術」があります。孟獲は諸葛亮に斬首された後も首だけでぴょんぴょん移動し、軍師・諸葛亮を五回も捕まえたと言われています。中にはゾンビになったという説もあるほどです。それぐらい少数民族の抱く怨念が強かったのでしょう。
なぜ孟獲は七回も捕まったのか?
七縦七擒という言葉は、孟獲と諸葛亮との戦闘で登場します。七回従って、七回放たれるという意味です。
「縦」の字は漢音読みのため、現代風にいうと従うという意味の「従」に近いです。「擒」は手で鳥などの家禽を捕まえるという意味です。家禽とは家畜のニワトリ版のようなものです。使われている字を見ても分かるように蜀は孟獲を下に見ていたことが分かります。
実は孟獲が戦う前から蜀と南方との関係は悪化していました。むしろ呉との関係の方が良好でした。
それは劉備が死んだことに起因し、南方戦線で反乱が起きたためです。そのため、七回捕まえたというより七回戦ったという方が実際のイメージに近いでしょう。
そして、抵抗する孟獲は、なんとしても蜀の支配から逃れたいという強い思いで七回も脱走を試みたのです。知略で上回る諸葛亮に最後は敗北を認めるレジスタンスですが、かの諸葛亮も一筋縄ではいかなかったようです。
また、五回目の脱走の際、孟獲の妻である祝融が助けに来たという話もあります。祝融は夫のあまりの頑丈さに関心し、心を動かされたそうです。
アメリカのドラマでも刑務所から脱獄するのは数回でしょう。しかも孟獲は脱獄した後もたびたび捕まってしまうところに三国志の面白さがあります。一般人ならば3回目ぐらいであきらめてしまうところを決死の覚悟で脱獄した上に、もう一度戦おうとするのですから、根性のある豪族です。
結局、七回も捕まったのは諸葛亮の策の一つで、武力ではなく人心を動かして服従させる方法をとっていたことが判明します。
三国志ライター上海くじらの独り言
七回も捕まった孟獲ですが、蜀に捕らわれた後は出世し、官位も授かっています。こうした懐柔がなければ、また雲南一帯で反乱が起きると蜀の重臣たちは考えたのかもしれません。
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