魏の武帝・曹操は著名ですが、弟の曹徳の存在を知る人はわずかでしょう。
曹操の異母兄弟とも噂され、歴史書の記載もまちまちです。ここでは曹徳のミステリーな生い立ちについて解説していきます。
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曹徳の生まれた年は不明
曹徳がいつ生まれたのかについては記載がありません。西暦200年前後の出来事だから、仕方ないと肩を落とす読者もいるでしょう。
しかし、あの曹操の弟です。何らかの糸口があるはずです。
出身は沛国で現在の安徽省周辺(上海の西)です。父親は曹嵩で長男が「曹操」。漢族で『後漢書』によれば「曹疾」という名前でも知られています。
日本人はあまり意識しませんが、中国では現在のパスポートにも「漢族」、「朝鮮族」といった記載があるのです。このカテゴリーで分けると日本人は「大和族」と呼ばれています。
ミステリー、曹徳は実在したのか?
『三国志』では曹操に兄弟がいたという記載はありません。その三国志に『善哉行』という詩が載っています。
そこには曹操の母親は彼が小さいときに亡くなり、兄弟もいませんという内容。こうした経緯から父・曹嵩の側室(もう一人の妻)の子ではないかというスキャンダルがあります。魏の礎を作った曹操の兄弟ということでいろいろな噂が飛び交っていたのでしょう。
日本でも戦前は戸籍制度が充実しておらず、曹徳と似たような状況の子どもがいました。曹徳に関して言えば、歴史書が残る三国時代の話ですが、戦乱の世ですから正確な記述でない可能性も十分あります。
曹徳は陶謙の乱で殺された!?
生まれた年は不明の曹徳ですが、亡くなった年は明らかで西暦194年です。きっかけは「陶謙」という人物が起こした反乱でした。
陶謙の乱が起きたとき、父・曹嵩は身を隠していました。曹嵩はもともと「太尉」という軍事を担う大臣でした。後任を別の者にまかせ、一線は退いていましたが、軍部に顔が効いたのは事実です。
曹操は泰山太守(県知事のような役職)の応劭に命じて兖州(山東省の南西)で父を迎え入れるように取り計らいました。『三国志』によれば曹操に恨みを持つ陶謙が徐州(江蘇省)で攻撃を仕掛け、曹嵩は騎兵によって抹殺されたとあります。
当時、曹嵩は100輌を超える物資を積んで戦いに備えていたため、近くを警護する陶謙の部下がこれらの財産を強奪したとも言われています。そして、町の外れで曹嵩と曹徳親子を惨殺したとあります(後漢書)。
さらに別の説では陶謙が曹嵩を護衛させるため部下を派遣したものの、部下が裏切って曹嵩の物資を強奪。その流れで仕留めたという話もあります。
敵対していた陶謙が護衛のために兵を送るというのもいささか考えにくいでしょう。そのため、曹嵩や曹徳を仕留める目的で陶謙が刺客を放ったのではないか、という説もあります。
曹操の仇討ちは成功したのか?
西暦193年。弟の曹徳、父の曹嵩が陶謙によって命を落としたことで反撃に出た曹操。曹操は怒り狂って突進し、戦地となった川は陶謙軍の亡骸で埋まったと言われています。つまり、一回戦は曹操が勝ったのです。
二回戦は北東へと場所を変えます。曹操は慮、睢陵、夏丘の三県を叩きのめし、兵士はおろか犬や鶏をも抹殺したそうです。父や弟を殺された恨みが、どれほど大きかったか想像に難くないでしょう。やがて、曹操軍は兵糧が尽き、撤退を余儀なくされ、陶謙は逃げ延びます。
翌年の4月、曹操はさらに進軍を開始。曹操の頭は復讐の二文字でいっぱいです。地の果てまで追いかけられた陶謙は、みるみるやつれていきます。
そして、陶謙は病死してしまうのです。まさか陶謙も曹操がここまで追いかけてくるとは思ってもいなかったのでしょう。陶謙が力尽きた瞬間でした。
三国志ライター上海くじらの独り言
書物によって記載が異なる曹徳の死。陶謙の部下が裏切ったのか、陶謙自身が命令したのかは定かではありません。
いずれにせよ、これが契機となり曹操が打倒陶謙へと動いたのは確かです。まさに自業自得の反乱だったのです。
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