三国志の終盤の武将と言えば、どのような武将が思いつくでしょうか。名だたる名将たちが姿を消していく中でも、まだまだ姿を見せる武将たち。
今回はそんな武将の一人である魏からの投降武将・姜維について話していきたいと思います。
姜維という武将のイメージ
さて皆さんは姜維という武将についてどのようなイメージを抱いているでしょうか?諸葛亮の後継者?
趙雲との一騎打ちで張り合えるほどの武将?蜀のために尽くしたけれど報われなかった悲劇の人物?
しかしこれらの姜維のイメージと言うのは、演義の補正が影響を及ぼしたものです。この全てが作られたもの、とは言いませんが、脚色されている部分はかなりあります。
例えば諸葛亮の後継者や趙雲との一騎打ち、これはほぼ演義の影響です。このため三国志演義を読んだばかりの人、三国志正史を見た人、両方読み込んだ人、それぞれで姜維のイメージは大きく変化しているように感じます。
今回のテーマはズバリそこ「姜維のイメージ」になります。では正史を踏まえつつ、姜維という武将を見ていきましょう。
姜維は諸葛亮の後継者ではなかった?
姜維は諸葛亮の後継者として認められた逸材である……と思っている方も多いかもしれませんが、それは誤解の部分が多いです。孔明は自分の死期を悟った時に、密かに劉禅に「私が死ぬことがあれば、後事を蒋エンに託すべきです」と言い残していました。
つまり実質的に諸葛亮の後継者と言うと、蔣エンになるのです。良く姜維が諸葛亮の後継者、弟子と思われている要因としては、やはり演義の補正が高いのです。もちろん諸葛亮は姜維を高く評価していました。
「涼州で最高の人物を手に入れた」と絶賛して、降将である彼を重く用いてきたというのも事実です。しかしこの演義補正が、姜維の評価を大きく分ける要因にもなっていると思います。
評価の分かれる存在…
三国志演義を読むと、姜維という武将は知恵、武術、忠義心と非常に優れた存在として描かれています。また諸葛亮によって母親が姜維を説得に来るシーンもあって、親孝行である一面も描かれていますね。
しかし一方で、正史の姜維にはそのような場面はありません。このため正史を読んだ人からは「北伐を繰り返して蜀を疲弊させた張本人」と言われてしまうことがあります。また当時の中国の美徳として「忠」がありますが、姜維は元々降将です。
つまり理由があったとしても自国から敵国に降っているのです。その際にもう一つの美徳であった「孝」である親を残して、敵国に行ってしまっているのです。蜀に行ってしまった姜維は魏の母親から国に戻るように、という手紙を受け取りますが、それに対して蜀で手柄をたてるまで帰らない、と返しています。
この点は、正史と演義で姜維のイメージがガラリと変わってしまう所ですね。さて姜維がどんな武将であったか、どちらのイメージが正しくて正しくないかは答えのでない話です。ですから姜維のイメージがあまり良くない人が良く話す「北伐」について、最後に語りましょう。
麒麟児は、どんな思いで北伐を繰り返したのか?
姜維が北伐を繰り返したのは演義、正史ともに事実でしょう。しかしどうして彼は北伐を繰り返したのでしょうか?
自分を敵国に降らせてしまった上官を恨んでいたのか?逆に自分を受け入れてくれた蜀という国、諸葛亮にどうしても報いたかったのか?
個人的には、姜維は北伐をするしかなかったのではないかと思います。姜維はあくまで魏の将でした。しかも北伐の司令官にまで任命されるほどの地位を与えられています。
だから彼はどうしても北伐で名を上げたかった、どうしても北伐を成功させたかった。「そこ」にしか、元は敵国の武将であった彼は自分の存在を見いだせなかったのではないでしょうか?
それが成功するか、失敗するかが分かっていたのかは分かりません。それでもそうするしかなかった……そう考えると、姜維という武将の人生に、ほんのりとした苦みを感じますね。
三国志ライター センの独り言
姜維のイメージは、人によって違います。
忠義と悲哀の人か、野心を抱えていた一人の将であったか、それは判断の難しいところです。しかしどちらか一面ではなく多方面に感じられる存在、それが姜維という武将と考えるとまた、その存在に深みが増してくると、筆者は思いました。
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