諸葛瞻が綿竹関で戦った理由とは?姜維との確執と蜀漢滅亡の因果関係を考察してみた


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

行軍する兵士達b(モブ)

 

263年5月、魏の大軍が蜀漢を滅ぼすために漢中へ向けて進軍しました。蜀漢軍は初戦で漢中を失い、数ヶ月のうちに成都の眼前まで敵が迫る事態に。

 

鄧艾に敗北し戦死する諸葛瞻

 

その際に諸葛亮(しょかつりょう)の息子である諸葛瞻(しょかつせん)は、敵将鄧艾(とうがい)を防ぐべく出陣しますが、綿竹関(めんちくかん)で敗れそのまま戦死しました。ただ、この戦いにおける諸葛瞻の対応には不可解な点があります。諸葛瞻が散った綿竹関は成都から目と鼻の先ほどの距離ですが、もともとは涪城(ふうじょう)という綿竹関よりも北に位置する城にいました。

 

降伏する劉禅

 

しかし、諸葛瞻はなぜか綿竹関へ退き、自身の敗死によって劉禅(りゅうぜん)が降伏を決意するきっかけを作っています。そこで、今回は諸葛瞻が綿竹関で戦った理由と意図を考察していきます。

 

 

鄧艾の奇襲と諸葛瞻の初動

三国志 剣閣のお城

 

蜀漢軍は開戦から数ヶ月で漢中を失ってしまったので、大将軍であった姜維(きょうい)は防衛ラインを下げて、剣閣(けんかく)に入りました。

 

剣閣を攻めまくる鍾会、籠城する姜維

 

ここには蜀漢軍の主だった将兵が集まっていたので、魏軍の主力を率いる鍾会(しょうかい)も容易に進軍ができなくなります。また、敵地に深く入ったことで魏軍は兵糧の運搬が困難になり、鍾会は撤退を検討していました。

 

鄧艾(トウ艾)と一緒に木を切り蜀に前進する鄧忠(トウ忠)

 

しかし、この時に鄧艾が陰平道という険路を通り、成都へ奇襲計画を立案。司馬昭の反対を押し切ったこの無謀な強行軍は見事に成功し、鄧艾は姜維の籠もる剣閣を迂回して成都が狙える江油(こうゆ)へ到達。突然の鄧艾軍出現に驚いた守将の馬邈(ばばく)は、すぐさま降伏をします。

 

諸葛瞻

 

そして、諸葛瞻は劉禅の命によって急遽江油の南にある涪城へ進軍することに。この時、黄権の息子であった黄崇(こうすう)が険阻な場所に陣取り、鄧艾を迎撃すべきと進言していますが、諸葛瞻はこれを拒否。そして、涪城に迫った鄧艾と一戦を交えますが、初戦に敗北した諸葛瞻は涪城から撤退し、南にある綿竹関へ入ります。

 

師簒と鄧忠の弱気な発言にブチギレ二人を斬ろうとする鄧艾

 

再び綿竹関で鄧艾軍と戦うことになり、一度はその攻撃を退けますが、鄧艾が逃げ腰になっている息子の鄧忠(とうちゅう)と部下の師纂(しさん)を斬ろうとしたため、2人は死に物狂いで攻撃を再開。その結果、諸葛瞻や息子の諸葛尚(しょかつしょう)、黄崇などを含む多くの将兵が敗死しました。

 

関連記事:成都大騒擾はなぜ起きた?鍾会、司馬昭の思惑を考察

関連記事:野心家と言われる鍾会だけど、そのものズバリ「面白い」

 

鍾会の乱

 

 

 

諸葛瞻、姜維、黄皓の関係性

出陣する諸葛瞻

 

諸葛瞻の対応には合理性や明確な目的意識が感じられません。ただ、鄧艾が諸葛瞻に対して降伏勧告をした際に使者を斬り捨てていることから、戦う意志はあったようです。そこで考えられるのが、剣閣にいた姜維との連携不足です。ただ、それを話す前に蜀漢政権内部の人間関係について話しておきます。

 

北伐したい姜維を止める費禕

 

諸葛亮の存命時には内政も軍事も丞相であった諸葛亮が担っていました。しかし、この体制は費禕(ひい)の時代から変わり始めます。姜維は費禕の死後に大将軍と録尚書事となり、軍事と政治のトップに立ちますが、内政にはほとんど関わっていません。

 

黄皓

 

内政は尚書令の陳祗(ちんし)が権力を握っていました。その陳祗が258年に没すると、宦官の黄皓(こうこう)が力をつけ始め、姜維を排除しようと動き始めます。

 

姜維の地位を落とす文官

 

特に黄皓の発言権や影響力が強くなると、成果の上がらない北伐を続ける姜維を非難し、徐々に北伐に賛成する人物を排除していきました。

 

姜維と仲が悪い諸葛瞻

 

尚書令の副官に当たる尚書僕射(しょうしょぼくや)だった諸葛瞻もまた北伐には反対をしていて、姜維を除くという点で黄皓と意見が合致したことから二人は結託を始めます。

 

皇帝・劉禅が住んでいる宮殿や成都を警備する伊賞

 

諸葛瞻はその役職上、皇帝である劉禅(りゅうぜん)に上奏文の取次が出来たため、姜維の兵権を奪う目的で益州(えきしゅう)刺史にするよう上奏しようとしました。そのくらい諸葛瞻と姜維は相容れない関係性だったのです。つまり、諸葛瞻は姜維との関係が悪かったことから、連携を取ることを拒否したと考えられます。

 

関連記事:【新解釈】黄皓の専横を招いたのは実は劉備では?

関連記事:悪臣で有名な黄皓は「無能」ではなかった

 

黄皓

 

 

諸葛瞻の不合理な行動のワケ

鍾会から降伏するようにと送られた手紙をシカトする姜維

 

ここからは姜維との連携を拒んだという前提で諸葛瞻の行動を考えていきます。まず、涪城から出て要地を押さえなかったのは、自身が前線に出ている間に姜維が剣閣を放棄、あるいは突破されることを懸念したためです。

 

前人未到のルートで蜀にたどり着いた鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾は奇襲をする旨を司馬昭(しばしょう)に進言した際に、陰平道を抜ければ姜維は剣閣を放棄するから鍾会は容易に進軍ができるようになる。仮に剣閣にとどまった場合は自身が涪城で対する敵が少なくなるのでいずれにしても有利に事が運ぶと述べています。姜維の考えがわからない以上、諸葛瞻が涪を離れれば、剣閣が落ちた時に鍾会の大軍を防ぐすべが無くなります。

 

鄧艾と全面対決で敗れて亡くなる諸葛瞻

 

続いて、諸葛瞻が涪城で鄧艾と対峙し、初戦に負けただけで綿竹関へと退いたのは、敗報を知った姜維が涪へ後退する可能性があったためです。

 

すぐに戦争したがる姜維

 

姜維が合流すると、諸葛瞻は軍事のトップである姜維の指揮下に入ることになります。兵権を奪ってやりたいくらいの相手だったので、諸葛瞻は死んでもそれを避けたかったのかもしれません。

 

劉禅から勅令が届き、鍾会に降伏する姜維

 

いずれにしても、お互いが連携を取っていなかったことは明白です。姜維は諸葛瞻が綿竹関で敗戦したことを知ると、剣閣を放棄して成都へ退くことを決意します。しかし、その際に涪城方面から成都に直行するルートではなく、巴西に入って迂回をするルートを選択しました。これは姜維が諸葛瞻の敗報という「結果」しか知らず、どういった戦い方をしていたのか、敵の数がどれくらいかという経過や詳細を知らなかったからです。

 

毛布に包まり崖を転げ落ちる鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾軍は奇襲をするために少数でしたし、諸葛瞻と戦う前は士気も下がっていました。そういった情報があれば、涪か綿竹へ引きつけた鄧艾軍の背を姜維が討つこともできたでしょう。また、姜維は成都に戦う力が残っていない事もわかっていたはずなので、情報さえあれば強引な手を使ってでも最短ルートで帰還したでしょう。

 

関連記事:諸葛瞻の名前にはパパ孔明の悲壮な決意が込められていた!

関連記事:3506名に聞きました!姜維のライバルは誰だと思う?

関連記事:姜維の暴走を止めたのは費禕だった!説得の言葉とは?

 

一億二千万人の三国志

 

 

諸葛瞻と姜維が連携できていたら魏軍を撃退できたのか?

兵糧を運ぶ兵士

 

魏軍は大軍で進軍速度が遅く、さらに兵糧運搬は容易ではありませんでした。陰平道を抜けてきた直後の鄧艾軍は兵糧が尽きかけていましたし、鍾会も剣閣での足止めされたのを機に撤退を検討していたので、鄧艾を早めに無力化していれば魏軍は撤退していたでしょう。

 

三国志 兵糧攻め 村人

 

しかし、蜀漢が滅亡した際に国庫に残っていた兵糧もわずかだったので、蜀漢軍も同様に長くは保ちませんでした。

 

劉禅

 

また、諸葛瞻の敗死と鄧艾が成都に迫ったことで劉禅の戦意は折れてしまったので、劉禅が他のきっかけで降伏をした可能性も十分にあります。

 

関連記事:劉禅は蜀漢滅亡後どうなった?劉禅と子孫のその後

関連記事:汚名返上できる?劉禅を評価できる逸話とは?

 

劉禅

 

 

三国志ライターTKのひとりごと

TKさん(三国志ライター)

 

諸葛瞻は実際に兵を率いた経験がなかったので、歴戦の武将である鄧艾を怖れた可能性があります。

 

農業の知識を使って富国強兵に努める鄧艾(トウ艾)

 

実際に鄧艾が陰平道から現れると江油を守っていた馬邈を始め、周辺の城もこぞって降伏をしているので、それだけ鄧艾の名声が鳴り響いていたか、内部に深く入られたことで戦意をくじかれたとも考えられます。

 

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

いずれにしても、経験不足の人材を駆り出すほど蜀漢は人材不足が著しかったので、遅かれ早かれ滅ぼされていたのかもしれません。

 

関連記事:諸葛瞻の意思はどこにあったのか?彼の行動をもう一度振り返る

関連記事:諸葛瞻の評価は如何ほどでありますか?黄皓派だった諸葛亮の息子

 

蜀漢の滅亡

 

永安の戦い

 

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

-姜維
-, ,