近年の古代日本の研究、発掘により、「藤原京」は、「平城京」や「平安京」をしのぐ、最大規模を誇った都であることが分かってきました。東西方向約5.2km、南北方向4.8kmにわたる大きさでした。二万人~三万人の住民が居住していたと言われています。
しかし、そこに都があったのはわずか十六年間でした。規模が大きすぎて、人口も多く下水処理が間に合わず、感染病が蔓延し、「平城京」への遷都を余儀なくされたと伝わっています。当時の日本には、まだ大きすぎて手におえない代物だったのでしょうか?
しかし、なぜ、そのような大規模な都を作ってしまったのでしょうか?
詳しく見ていきましょう。
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
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この記事の目次
「藤原京」が古代最大規模の帝都として必要とされた理由
まず、考えられる要因を幾つか挙げてみましょう。
①宰相・藤原不比等の陰謀
②持統天皇と天武天皇の理想と野望
③背後からの脅威に対する防備のため
それぞれ、興味深い要因だと思いますが今回、注目したいのは、③の要因です。筆者には、これが大きな要因だと感じられるのです。背後からの脅威とは、やはり、海を越えた、大陸の大国でしょう。中国大陸の「大唐帝国」の存在です。
大唐帝国の「武后」の登場
日本(倭国)の大和朝廷の宮中では、「白村江の戦い(663年)」で唐に大敗北して以降、唐の影に怯え続けていたことでしょう。
さらに、「壬申の乱(672年)」では、大和朝廷を二分する戦が勃発したのです。これは、大陸で勃発した、唐と新羅の間の戦に連れて、巻き込まれた形で勃発した戦とも言えるでしょう。そして、注目すべきは、この2つの日本史のターニングポイントとなる事件の当時、大唐帝国の政治を、事実上動かしていたのは、「武后(武則天)」だったと伝わっていることです。
武后は、病弱だった、唐の三代皇帝「高宗」の皇后で、皇帝に成り代わり表政治に関わっていたと言われています。つまり、武后の影響力が日本史を動かしていたと言ってもよいでしょうか。
東アジア最大国家の女帝「武則天」降臨!
そして、日本の大和朝廷で、「持統天皇」が即位した頃、大唐帝国の宮廷内では、大混乱が生じていました。中国史上かつてない事変が起きたのです。
三代皇帝「高宗」が死去して数年後の、690年に、皇后「武后」が自ら皇帝に即位したのです。「武則天」の誕生です。国名も「唐」から「周」に改めたのです。このとき、唐は一時的に消滅しました。
このような流れは、日本の大和朝廷にも伝わっていたことでしょう。日本には、女帝・持統帝。中国大陸には、女帝・武則天。同時期に、海を挟んで、二人の女帝が登場していたことになります。しかも、その間には、緊張関係があったとも考えられます。
女の戦い 武則天VS持統帝だった?
つまり、武則天VS持統帝という構図が浮かび上がってきます。そこで、大陸の「武則天」の「周帝国」に対抗すべく、巨大都市を造営するよう画策されたのではないでしょうか?それは、実際に「藤原京」の中心地に立ってみるとより強く感じられるのです。
藤原宮殿跡は、現在の橿原市にあります。市の中心部から少し東寄りにあたるところです。藤原宮殿 を中心に、その周りには、小高い山々の「大和三山」があります。「耳成山」、「香久山」、「畝傍山(うねびやま)」 です。これらは、標高が150~190メートルの山々です。筆者は、取材の意味合いもあり、先日、藤原宮跡付近を訪問した際、「香久山」の山頂にまで登ってみました。
それほど高くなく、登りやすいと感じる山でした。さらに、山頂からは、藤原京だった所全体を見渡すことができました。兵士たちを配置し、見張らせるには、もってこいとも感じられました。宮殿に向かって、怪しげな動きを見せる多人数の軍勢などは見逃すことはなかったとも思えてきました。
藤原宮殿の北側に耳成山、その東側に香久山、西側に畝傍山の位置関係であり、三方から見張ることができたでしょう。
さらに、その大和三山の背後には、
生駒山
葛城山
金剛山
吉野山
三輪山
といった、より高い標高500~1000メートルの山々が取り囲んでいるのです。これは、自然の要害にもなったでしょう。それらの山々と藤原京を含めて「巨大要塞」だったのだと考えられるのです。
しかし、川や水辺が少ない盆地のため、夏の蒸し暑さや、冬の極寒はとても厳しいものであったと考えられます。病気にかかりやすい環境だったと言えるでしょう。ある意味、城の中に籠城していたようなものではないかと思えてくるのです。
「藤原京」は藤原城だった?
つまり、藤原京とは、中国大陸の「武則天」の脅威に備えた、防備に徹した籠城作戦の意味があったということです。
しかも、十六年もの間です。藤原京が都として存在したのは、(694年~710年)でした。一方、武則天が皇帝だった期間は(690年~705年)なので、重なるのは、約十年間(694年~705年)ということになります。
つまり、約十年間も、武則天の脅威に警戒し、藤原京に籠城していた期間だったいうことです。そう考えられないでしょうか?これは、日本の大和朝廷と、武則天の「周」帝国との間の戦だったいう見方もできるかもしれません。ある意味「冷戦」です。
と見れば、川などの水辺が少なく外からの侵入は防ぎやすいですが、暑さ寒さは極端で、下水に手間取りやすい、藤原京を都にした理由として納得がいくのではないでしょうか?(ちなみに、藤原京には、小規模な「飛鳥川」が一本流れているのみでした。)
おわりに:ライター コーノ・ヒロの独り言
そう考えると、平城京遷都は願ったりかなったりだったかもしれません。平城京の近くは、木津川など水辺も多く、下水処理も上手くいきそうですし、夏は涼しげに感じられますから。
次回は、 中国史上唯一の女帝・武則天についての話です。好戦的で、脅威の印象の武則天ですが、日本側に強い影響をもたらしました。良い意味の影響もあったでしょう。特に、日本では、女帝・持統帝の時代でしたから、同じ女性として、学ぶところも多かったでしょう。
武則天が日本にもたらした影響について 迫っていきます。次回をお楽しみに。
(了)
【参考資料・サイト】
- 橿原観光ナビ・橿原市
- 橿原商工会議所
- ミツカン 水の文化センター
- 『女帝の世紀 皇位継承と政争 』(仁藤敦史 著・角川選書)
- 『古代東アジアの女帝』(入江曜子 著・岩波新書)
- 『持統天皇と藤原不比等』(土橋寛 著 ・中公文庫)
- 『女帝―古代日本裏面史』(梅澤恵美子 著・ポプラ社)
- 『女帝の古代史』(成清弘和 著・講談社現代新書)
- 雑誌記事『女系図で見る日本争乱史-第三回・壬申の乱 持統天皇の革新性-』(大塚ひかり 記・新潮社「波」より)