漢王朝の悲鳴の原因となった跋扈将軍 梁冀とは誰?


暴れる黄巾党と張角

 

中平元年(184年)に太平道(たいへいどう)の教祖の張角(ちょうかく)が起こした黄巾の乱により、後漢(ごかん)(25年~220年)は滅亡に向かいました。

 

太平道の祖・張角(黄巾賊)

 

実際のところ、後漢は黄巾の乱以前から滅亡に向かっていたのです。今回は黄巾の乱以前に起きた朝廷内での争いについて解説します。

 

自称・皇帝
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外戚 梁冀

王莽

王莽

 

前漢(ぜんかん)(前202年~後8年)は外戚(がいせき
)
王莽(おうもう)により滅ぼされました。後漢はこの轍を踏まないようにしているかと思ったら、そうでもありません。

 

梁冀(りょうき)

 

後漢第8代皇帝順帝(じゅんてい)の時代に梁冀(りょうき)という人物がいました。この人物が政治の実権を20年以上も握ります。梁冀は容姿は醜く、読み書き・計算も大して出来ない男でした。

 

それがなぜ、政治の実権を握れたのかというと順帝と第11代皇帝桓帝(かんてい)の皇后が彼の妹だったからです。要するに、梁冀は外戚です。日本で例えるのなら藤原道長(ふじわらのみちなが)のような存在です。

 


 

皇帝も殺す梁冀

 

梁冀は非常に短期な男です。梁冀の屋敷の庭は広いため、まるで林か森のようです。そこに誤って入った人物がいて、梁冀のペットのウサギを殺してしまいました。怒った梁冀は、その人だけではなく、一族抹殺にしました。

 

また、梁冀は皇帝にも手を出す男です。後漢第10代皇帝質帝(しつてい)は子供でしたが、賢いところがありました。日頃のやりたい放題の梁冀に対して「跋扈将軍」と一発言ってやりました。

 

「跋扈」とは、「強くてわがままに振る舞う」という意味です。言われてカチンときた梁冀はその日のうちに、質帝を殺してしまいました。


 

梁冀と曹騰

 

さて、質帝を殺したので次の皇帝を立てる必要があります。候補として挙がったのは、評判のよい劉蒜(りゅうさん)です。劉蒜を候補として擁立するのは李固(りこ)というこれまた評判のよい官僚です。

 

梁冀が候補として挙げているのは、自分の妹が嫁いでいる劉志(りゅうし)です。どちらが皇帝になるのか分からない状況でした。そんな時に、梁冀に接近した人物がいました。

 

曹操

 

宦官の曹騰(そうとう)と言います。血の繋がりはありませんが、曹操(そうそう)の祖父です。曹騰は宦官としては評判の良い人物でしたが、以前から官僚の李固とは馬が合いません。また、皇帝候補として挙がっている劉蒜からも馬鹿にされた経歴があったので今回は梁冀の味方に回ったのです。

 

そこで梁冀に接近して、自身も劉志を推していることを伝えました。宦官の曹騰の援助があるのは梁冀にとって心強いことでした。こうして劉志が皇帝になりました。後漢第11代皇帝桓帝です。


  

 

 

ひじを噛む盟約

 

桓帝も賢い人物でした。大きくなるにつれて、梁冀の横暴な態度が許せなくなりました。延熹2年(159年)に桓帝の皇后の(りょう)氏が亡くなりました。桓帝はチャンスが来たと悟りました。

 

ある日のこと、桓帝は宦官の単超(ぜんちょう)を筆頭に5人の宦官を集めて、トイレで密談をしました。トイレといっても、みんなが使う公衆トイレで密談をするわけではありません。皇帝専用のトイレで行うのです。

 

皇帝専用のトイレは、かなり広かったので密談によく使われたようです。桓帝はそこで梁冀暗殺を計画します。計画を練り終えると盟約として桓帝は単超のひじを噛みました。

 

なんで他人のひじなんだ?

 

普通自分の指だろう!突っ込んでも史料に載っている事実なので仕方ないですね。

 

桓帝の大勝利と宦官の専横

 

延熹2年(159年)に桓帝はクーデターを起こします。梁冀は桓帝の不穏な動きを察知していましたが、動きを全て封じられていました。梁冀やその一族は皆殺しにされました。このクーデターで活躍した単超たち宦官は、莫大な恩賞を受けました。ところが、単超たちはすぐに本性を現しました。

 

彼らは梁冀に代わり、政治に口を挟むようになったのです。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

この宦官の政治に対しての口出しに異議を唱えたのが、儒教的思想で政治に臨む官僚です。彼らは自分たちを「清流」と呼び、皇帝と結託する宦官を「濁流」と呼んでいます。この清流と濁流の争いから生まれた事件は「党錮の禁」と言われていますが、それは別の機会に話します。

 

※参考文献

民衆の反乱 (人間三国志)

 

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