デブで醜くて残忍非道。どこまでが実像なのかはわかりませんが、後世の歴史家たちのおかげでこんなイメージがすっかり定着してしまったのが、董卓。三国志きっての悪役として名高い存在となってしまいました。
ですが一度は中国の実権を握ることに成功した手腕の持ち主です。冷静に彼の事績を見ていくと、その手腕には確かに非凡なものを感じます。
だいいち彼のイメージの悪さは後世の歴史家の印象操作によるところも大きいとか。そこで一度は冷静に、彼の「覇王としての手腕」を、その事跡からできるだけ客観的に見てみたいと思います。
すると古今の中国史の統治者たちと比較して、彼には確かに鋭い特徴があることに気づきます。
関連記事:董卓の武勇はすごかった!短命とはいえトップに上り詰めた男の手腕を再考
この記事の目次
たびたび中国史を揺るがす「北方の騎馬民族」たちと、董卓は良い関係を築けていた!
洛陽を制圧する前の董卓がその勢力を蓄えていたのは、涼州においてでした。涼州といえば、のちに馬騰や馬超が拠点とする、中国本土から見て北西に位置する辺境の地。ここにおいて董卓は、匈奴や羌族といった異民族に対する警戒と鎮圧の役割を期待されていました。
何せ北方の騎馬民族といえば、かの秦の始皇帝も警戒対象とし、万里の長城建築の理由ともなった相手です。始皇帝の後の漢帝国にとっても、その後の中国の歴代王朝にとっても、匈奴や羌族の侵入をどのように阻むかが重要なテーマとなったのでした。
董卓はこれを見張り対抗することが役目だったわけですが。
意外な展開!董卓は異民族たちと良い関係を構築していた!
ところが『後漢書』の『董卓伝』を読むと、意外な記述に出会います。
・董卓は異民族たちの土地を歴訪し、族長たちを訪問して、良い関係を築くことに成功していた
・族長たちのほうから董卓を訪ねてきたときは、家畜をつぶしてご馳走をふるまい、彼らの感激を得た
などなど。
もちろん、軍事的に対決をしなければいけない時には董卓は容赦ない攻撃を行い、「その出撃回数は百回を超えた」との勇ましい記載もあるから、単純な友好一辺倒だったわけではありません。ですが、異民族側の有力者と連絡を取り、彼らの心を掴んでいたというのは、後年の残虐一本の董卓からすると意外に思えます。
董卓の豪放さはむしろ匈奴や羌族と波長が合っていた?
あくまで想像ですが、後に中央ではあれほど嫌悪される董卓の豪放磊落な性格は、少なくとも匈奴や羌族と付き合う際にはプラスに働いた、といえるのではないでしょうか。族長が訪ねてきた時に躊躇なく家畜を殺して料理した、というのも、何か深謀遠慮があってやっているというよりは、もともとそういう豪快なふるまいが好きな人、という見方もできます。
後世の歴史書では、悪逆な面ばかりが強調されている董卓ですが、波長が合う人には、豪快で頼もしい親分肌の男として見えたのかもしれません。
まとめ:若いころの董卓の異民族親善は、見えないところで権力奪取を助けていたかもしれない
「遠交近攻」という言葉がある通り、直接の利害が少ない遠方の勢力を味方につけておくことは、戦略の要諦。ましてや、歴史的に中国の中央政権に恐怖感を与えてきた匈奴や羌族と「若いころにつるんでいた」という事跡は、董卓が中央政権を牛耳った際にはおおいにプラスに働いたのではないでしょうか?
三国志ライター YASHIROの独り言
よしんばそれが、異民族からの具体的な物理支援ではなかったにせよ、「あいつの後ろには異民族の大軍がついているらしい」というウワサのレベルだけでも、相当な心理的効果になっていたのではないでしょうか。
反董卓連合軍のようなおおがかりな同盟が成立するまでは、誰も董卓に手が出せない雰囲気だったのも、そのような背景があってのことだったかもしれません。だとすると董卓は、「遠交近攻」を地で行くような人生を歩んでいたことになります。
覇王としての手腕については、董卓はかなりのやり手であったといえるのではないでしょうか。それが深い智謀からきている行動というよりは、本人の素の性格で「できていた」とすると、なおさら、敵対者にとっては「てごわい」存在に見えていたことでしょう。
関連記事:董卓が行った長安遷都とはどんなこと?長安遷都の意図は?
関連記事:袁紹と何進はなぜ董卓を都へ招集したの?後漢王朝の命運を絶った大愚挙