三国志ファンの中には、正史三国志重視で、三国志演義の影響を受けていないと豪語する人がいます。でも、そんな人でさえ無意識下で入り込む演義の影響を排除するのは容易ではなく、知らない内に演義の脚色を事実だと勘違いしている事があります。
なぜ、そんな事が起きるのかと言えば、三国志演義は史実の中にフィクションを織り混ぜリアリティを増す作業をそれこそ無数に施しているからなのです。今回はkawausoもすっかり騙された董卓最大の悪行、洛陽焼き討ちと長安遷都について考えてみます。
あの洛陽炎上シーンはかなりの脚色が入っていた
三国志のハイライトとして名高いのは、洛陽炎上のシーンです。袁紹を盟主とする反董卓連合軍を恐れた董卓は、李儒の意見を容れて、突如長安に遷都すると言い出し群臣の反対を押し切り強引に実行します。
この洛陽炎上の阿鼻叫喚は三国志演義に以下のように描かれています。
董卓は(李儒)の提言を入れて、ただちに騎兵5000を派遣して洛陽の富民数千戸を捕らえさせ、残らず城外で打ち首にしてその財産を奪った。
次に、李傕・郭汜は洛陽の住民数百万を残らず駆り立てて長安に向かわせた。
市民の一群の次には必ず軍隊を一群挟んで無理やり護送するので、道端に命を落とす者数知れず、その上、兵士らは市民の妻に凌辱を加え、食料を奪うがままにさせたので泣き叫ぶ声は天地をおおいつくした。
董卓は出発の間際になると、城門に放火して民家を焼き払い、宗廟、宮殿、官庁にも火を放ったので、南北の両宮殿で燃え盛る紅蓮の炎が二匹の蛇のように入り交じり、長楽の宮殿も残らず焦土と化してしまった。
それからまた、呂布を遣わし先帝及び、皇后、妃たちの墳墓を発かせて埋めてあった宝物を取らせたので、兵士たちは事のついでに市民や官人の墓まであばきつくした。董卓は金銀財宝反物など車数千台に満載し、天子や妃たちを脅かして連れ出し、真っすぐに長安に向かった。
いやー、「講談師、見て来たように嘘を言い」とは正にこの事!
あんた現場を見てたのか?と羅漢中に突っ込みたくなるようなリアルな描写です。
洛陽炎上は、三国志のハイライトで映画、ドラマ、漫画でも繰り返し描かれて、三国志を知る人は概ね、これが事実だと信じていると思います。でも、ここに描かれた出来事の70%くらいは嘘なのです。
正史三国志の長安遷都
では、次に正史三国志董卓伝を読んでみましょう。
董卓は山東から豪族が一斉に蜂起したので恐怖にとらわれ落ち着かなくなった。
初平元年(190年)2月、かくて天子を遷して長安に遷都した、洛陽の宮殿に火をつけ、陵(歴代皇帝の墓)を
ことごとくあばいて宝物を奪い取った。董卓は長安に入ると太師となり尚父と号した。
陳寿が記した正史での董卓の長安遷都のくだりは、たったこれだけしかありません。ここだけを見ると、董卓は洛陽の宮殿に火をかけて、歴代皇帝の墓を発いたものの、洛陽そのものには火を放っていませんし、金持ちを皆殺しにしたとか洛陽の住民を強制連行したという話も存在しません。
もっとも、裴松之が董卓伝を補った続漢書には、董卓は自ら兵を引き連れて、南北の宮殿、宗廟、政府の蔵、民家にまで火を放ち、また多くの富豪を捕らえて罪をかぶせて処刑し財産を没収したので無実の罪で死んだものは数知れずとあります。
三国志演義は、裴松之が補った続漢書の記述から洛陽炎上の董卓の暴虐シーンを産み出したのでしょう。しかし、陳寿が書いた正史三国志には、この部分は無かったのです。
董卓が洛陽を焼くまでには時差がある
もう一度、おさらいしてみると、陳寿が記した正史三国志本文では、董卓は宮殿を焼いて歴代皇帝の墓を発いたものの、洛陽そのものは焼いていない事が分かりました。では、一体、いつ洛陽は焼かれたのでしょうか?
それを解くカギは、正史三国志の孫堅伝に記載されています。少し長いですが、読んでみましょう。
初平2年(191年)2月、陽人の戦いで孫堅が董卓軍を破り、副将の華雄を縛り首にした。
董卓は孫堅の勇猛さを恐れ、将軍李傕を派遣して和睦を求め、孫堅が子弟で刺史・郡守に任じたい者がいれば、その通りに任命してやろうと甘言で釣ろうとした。
しかし孫堅は、「董卓は悪逆非道で皇室を転覆させた奸賊であり、奴の三族を族滅して天下に示さないと私は死んでも目を閉じる事はできない。どうして和睦が出来るのか?」と拒否して、再び大谷に進軍し洛陽まで九十里の距離まで来た。
董卓は洛陽を焼きつくして、余裕綽々で関中に引っ込んだ。孫堅はかくして前進して洛陽に入り、皇帝の墳墓を修復し董卓の盗掘箇所を埋めた。修復を終え軍を引いて還り、魯陽に駐屯した。
お聞きの通り、洛陽が董卓に焼かれたのは、西暦191年の2月以後である事が分かります。
三国志演義では陽人の戦いは丸々カットされているので、董卓が献帝を長安に移動させると同時に洛陽を焼いたように描いていますが、実際には、それから1年以上も洛陽は存在していたのです。
これだけ時差があれば、洛陽の住民を強制的に追い立てる必要はありません。住民が長安に移動しているのならとっくに移動しているはずで、劉備のように孫堅軍が近くまで迫っているのに、董卓軍が住民を連行してのろのろ退却しているとも考えにくいです。
つまり、董卓による洛陽住民の強制連行は無かったのではないかと考えられるのです。
三国志ライターkawausoの独り言
三国志演義の過激な描写と違い、董卓の長安遷都は、最初に献帝と官人と官女を長安に移動させ、次に宮殿を焼いて、歴代皇帝の墓を発いて財宝を回収して後は、洛陽に駐屯して、反董卓連合軍の動きを見ていたと考えられます。
住民は嫌々長安に移動して行ったと考えられますが、董卓軍により強引に追い立てられ、疲労で道端で死んでしまうような事は、陳寿の正史三国志には書かれていませんし、実際には無かったのではないでしょうか?
そもそも、陳寿は董卓を性格がねじ曲がった暴虐非道な男で、歴史上、これほど残忍な男もいないであろうと100%の悪人として書いています。
また、董卓が宴席の余興として、北地郡で降伏した捕虜の舌を切り、目をくりぬき、手足を切断して鍋で煮込み、死にきれずにのたうちまわる捕虜の様子を平然と見て飲み食いしたという描写は、普通に正史三国志に記載されており、陳寿が描写を手加減している様子はありません。
ですので、もし董卓が洛陽の住民を強制的に長安に連行し、途中で多くの死者を出したのであれば、これを正史に書かないとは思えないのです。
参考文献:正史三国志
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