覇王曹操の息子にして、魏の文帝曹丕の弟、傑出した詩人としての名声を得ながら悲劇の最後を迎えたのが曹植です。その悲劇的な生涯と詩人というナイーブそうな印象のお陰で優しいロマンチストのように描かれる曹植ですが、
それは大間違いであり、史実の曹植は本当に詩人?と思う程にシニカルなリアリストでした。
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オカルト方士を笑い者にしていた曹植
曹植は生前に弁道論という著作を出していました。道を弁えるというタイトルからして、いよいよ詩人くさくないですが、そこには、およそオカルトが大嫌いであった曹植の様子が分かる一文があります。
世にいる方士たちを我が王(曹操)はことごとくその宮廷に集められた。
甘陵からは甘始が、盧江からは左慈が陽城からは郤倹がやってきた。
甘始は行気導引に巧みで左慈は房中術、郤倹は穀断ちで有名でありそれぞれが三百歳になると公言していた。
王が彼らを宮廷に集めた真意は、こうした連中が世の悪人とぐるになり人々を騙し、迷信を煽り立て民衆を惑わすのを恐れた為であり
(秦の始皇帝のように)、不老不死の薬を探したり、仙人の雲に乗ろうとしたり天翔ける龍の背に乗りたいと願望したからではない。
父上から、我が兄曹丕、そして兄弟の全てに至るまで、みな、方士などお笑い草だとして信じていなかった。
曹操は方士の言う健康法を一部実践して逆さづりになったり、猛毒を持つ植物を少しずつ食べたりしていますが、それは健康法、養生法として受け入れただけでした。
詩はあくまで想像なんで!by曹植
確かに父の曹操が方士を重用して高い地位に就けたという記録はありません。また、曹操の息子達で方士の説くようなオカルトにハマる人間は記録では出てこないので、曹操以下、その息子達がオカルトを信じたわけではなく、悪人と結びついて民衆に害を為す方士を洛陽に集め飼い殺したのは嘘ではないように感じます。
それはそれとして、神秘的な詩も書いた曹植がオカルトの類をお笑い草と信じていなかったというのは、なんだか意外です。つまりは、幻想的な表現は曹植のイマジネーションでしかなかったわけで、父、曹操と同じく曹植も根っこからリアリストだったのです。
「え?龍、んなもんいるわけないでしょ、空想の産物ですよ」史実の曹植は、案外、そんな風だったかも知れません。
夢もへったくれもない感想を述べる曹植
曹植は洛陽において、身近においた方士をしきりに観察していました。でも、その目線は不信と猜疑、そしてシニカルな評価に満ちています。例えば、左慈は房中術で年を取っても女性とまぐわい長寿で死にますが、それに対して曹植は、弁道論で以下のように述べます。
「左慈は房中術に通じていて、天から与えられた寿命をほぼ生き尽くす事が出来たしかしながら、それは堅い意志を持ち、房中術を深く理解したものでないと実行して、その効果を現す事は出来ないのだ」
これなんか、ダイエットしたハリウッドスターに見習い痩せようと決意した人に「よせよせ、あいつらは肉体改造が仕事に直結するからお前とは意志の強さが違うそれに、映画1本数億円のギャラもらえば、そりゃ痩せるよ」
とシニカルに人の決意を否定してくる人に似ています、夢もへったくれもないのが曹植の態度なのです。逆に言えば、奇跡的な事が起きても、煽られてあっさり信じるのではなく、その奇跡の背後を考える科学的な態度を貫いた人であるとも言えるでしょう。
方士を信用させ発言を引き出す曹植
そんな曹植、ただ冷ややかに方士の様子を観察していたわけではありません。どうにか、方士のペテンを見破ってやろうと、積極的に近づいていきました。
例えば甘始は、様々な摩訶不思議な事を言う人ですが、大体根拠の裏付けが弱いので、ひとつ虚言を暴いてやろうと考えています。そして、あえて側近を遠ざけて、甘始と二人きりになり、優しい表情と、私はお前の言葉を信じるぞと言いたげな巧みな口ぶりで甘始に近づいたのです。
弁道論によると、これにより甘始は曹植に心を開き、様々な摩訶不思議な事を語り始めました。
①私が元仕えた師は、姓は韓、字は世雄という者で、かつて師匠と南海で黄金を造り、数万斤の黄金を海中に投じたものです。
②梁冀の一族が権力を握っている頃、西域の胡人が絨毯と腰帯と割玉刀を献上した事がありました。今でも、それを自分のモノにしなかった事を悔やんでいます。
③車師の西の国では、子供が生まれると背中を切り裂いて脾臓を取り去ります。食事の量が少なく、健脚になるように考えてそうするのです。
なかなか頭が痛くなる内容です。そもそも、黄金を数万斤造って海に捨てるような神通力があるなら、いくら胡人の絨毯や腰帯、割玉刀が高価でも造作もなく買えるでしょう。
どうして、手に入らない事を惜しむ必要があるでしょうか?
ともかく、曹植は、そのような甘始の法螺話をフンフンと聞いていました。
またある時、甘始はこんな事を言いました。「五寸ほどの鯉を二匹用意して、そのうちの一匹に薬を与えておいて二匹の鯉を煮立った油の中に放り込みます。薬を与えた方は、深い池にいるように尾ひれを振って泳いでいますがもう一方は、たちまちの間に煮えあがり食べられるようになります」
これを聴いた時に、曹植の目がキラリと光りました(多分)
「お前の言うところをすぐに試してみる事はできるのか?」
しかし、甘始は頭を横に振り
「その薬は一万里の寨外の彼方にしかなく、しかも私が行かないと手に入れる事は出来ないのです」と
逃げを打ちました。
実際に甘始に薬を探させたら、行方をくらますつもりでしょう。
それは、曹植にも分かったようで、以下のような感想を残しています。
「甘始がもし、秦の始皇帝や前漢の武帝の時代に生まれれば、彼もまた、徐市や欒大の仲間入りをしたのである」
三国志ライターkawausoの独り言
曹植は、甘始から大量にこの手の法螺話を聴取したようですが、あまりに数が多くて全てを記録できないので、特に怪しげな話だけを採取したと弁道論に書いています。
こうしてみると、曹植はオカルトが嫌いなだけではなく、オカルトをバラまく奴にも容赦がなく、論破したり検証して、矛盾を見抜かないと気がすまない、かなり面倒くさい人物だったという事になるかも知れません。
参考:正史三国志魏書華佗伝が引く弁道論
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