蜀の宰相、諸葛亮、そんな彼は青年時代、自身を古えの名宰相管仲やキングダムのレジェンド楽毅になぞらえたのがハッキリ言って嫌味、徐州から流浪の末に荊州にやってきた身の上が影響してかそんなに友達がいない寂しいキャンパスライフを送っていました。
しかし、たで喰う虫も好きずきという格言の通り、寂しい孔明にも徐庶と崔州平という親友がいた事が正史三国志には記録されています。では、どうして、この三人は友達になったのでしょうか?
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この記事の目次
悲惨な境遇が3人を引き寄せた
同病相憐れむという言葉の通り、人間は自分に似た境遇の人に同情し、好意を寄せやすいものであるようです。それは、三国志の時代でも同じであり、孔明も徐庶も崔州平も、世間一般の青年とは違う、影のある過去を持つために引きあったのだと考えられます。では、3人が背負った影とは何だったのでしょうか?
ここでは、正史三国志の記述を元に3人の少年時代と青年時代を辿って行こうと思います。
親父が金権政治家、崔州平
崔州平の父は崔烈と言いました。彼は名高い学者でしたが、霊帝の時代に売官制が確立すると五百万銭の大金をはたいて、三公の一つである司徒の位を買いました。これに世間は猛反発しブーイングの嵐で応えました。崔烈も学者としての名声を台無しにしてしまいます。そして、誰よりもショックを受けたのが息子である崔鈞でした。この崔鈞は崔州平の兄に当たります。
尊敬していた父が金の力で司徒の役職を買い取るなんて赦せない裏切り行為に映ったのです。ある時に、崔烈が息子の崔鈞に私が三公になった事を世間はどう思っているかを尋ねると、崔鈞は正直に
「世間の人は父上が銅銭臭いと申しております」と答えてそれを怒った崔烈に杖で追い回されています。その頃、崔州平はまだ幼かったようですが、出世したさに三公の位を金で買った崔家の子供として世間から後ろ指を指されるようになったようです。
その後、兄の崔鈞は反董卓連合軍に参加して戦い、崔州平は父と共に、董卓の長安遷都にも従いましたが、董卓の死後、長安に攻めてきた李傕・郭汜の軍勢により城門校尉として門を守っていた崔烈は殺害されました。兄の崔鈞は、李傕と郭汜に敵愾心を燃やし何とか仇を討とうとしますが父の死から間もなく病気で亡くなっています。
その後、父と兄を失った崔州平は混乱する長安から出て、流れ流れて荊州の司馬徽の門下生になりました。こんな風に屈折した少年期を送った崔州平がどこか擦れた青年になっても、不思議はないでしょう。
無頼過ぎて人が近寄らない徐庶
徐庶が若い頃は学問を修めずに、任侠の徒とばかり付き合い、撃剣を得意とし、とうとう人の仇討ちで殺人を犯して逃亡。顔を白く塗って別人を装い探索を逃れていたのが、とうとう官憲に捕まりあわや処刑されそうな所を仲間に救われたというのは、よく知られた話だと思います。
これに感激した徐庶は、これまでの無頼の人生を悔いて改めて学問をしようと、武器を捨てて粗末な着物をまとい精舎に入って学び始めますが、悪事千里を走るというやつで同じく精舎で学ぶ仲間は、徐庶が元賊である事を知って、仲間外れにしていたようです。
それでも、徐庶はこれも自業自得だとして、腰を低くして、朝早く起きては掃除をし学問に没頭します。ここでの生活で徐庶は、人の意図を見抜き、高い洞察力を体得する事が出来たようです。
やがて徐庶は、同郷の石韜と仲良くなり、以後、同地で戦乱が起きると荊州に逃れて、そこで司馬徽の門下生になったのです。若いながら、人を殺して逃亡するような無頼の人生を送った徐庶には、確かに普通の豪族の子弟では付き合いにくかったでしょう。
控え目に見ても戦災被害者の諸葛亮
諸葛亮も悲惨な少年時代では負けていません。徐州琅邪陽都が本貫の孔明は、早い時期に父を亡くした上に故郷の徐州は、曹操の侵攻の標的となりました。その為に禍を逃れようと、従父の諸葛玄と一族共々に放浪の旅を続けて、ようやく荊州に腰を落ち着けたのです。
群雄による血で血を洗う領土争いが当たり前になってきた時期。少年孔明は、見たくもない悲惨な状態や醜い人間の業を嫌というほどに見てきたんじゃあないかと推測します。諸葛亮が法家を統治の根本としたのも秩序崩壊の混沌が生み出す人間の罪深い行いの数々を少年時代に見ていたからではないかとkawausoは推測したりしています。
それぞれに影を背負った3人は親友になった。
少年時代に、あまりにも深い影を背負った3人は平凡に生きてきた豪族の子弟とは馴染む事が出来ず、次第に影を持つ人間同士で集まるようになったのでしょう。
諸葛亮は生真面目な分、自説に固執する頑固な面があったようですが、徐庶にはそんな所がなく、他人の意見でも優れた部分は取り入れる柔軟性がありました。これは徐庶が、無頼の生活を反省して身に着けたものだったのでしょう。一方で、崔州平は諸葛亮の長所と短所を遠慮なく指摘する人で、諸葛亮は大いに感化されたようです。
この崔州平のドライな人間観察は、金権政治家の息子として、周囲に白い眼で見られた事に対して冷静に対処する為に培われた性格だったのかも知れません。
三国志ライターkawausoの独り言
こうしてみると、諸葛亮、徐庶、崔州平には、少年期から青年期に、普通に人生を生きていると経験する事が出来ない重い影を背負ったと言えます。そして、そんな影を背負っているからこそ、平凡な同年代の青年とは話や考え方が合わずに、距離を置いた孤独を貫いていたのでしょう。
しかし、そこに、同じように影を背負った仲間に合う事で、はじめて何でも忌憚なく語り合う事ができるようになったのです。読者の皆さんは、この3人が友人になったのは、何が理由だと思いますか?
参考:正史三国志蜀書諸葛亮伝
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