【董卓の逸話】董卓は実はいい人だった?

2019年8月29日


 

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董卓

 

 

董卓(とうたく)は後漢(25年~220年)の群雄の1人です。元々、涼州を治める地方官の1人に過ぎませんが、後漢第12代皇帝の霊帝が亡くなったことを契機に、首都の洛陽(らくよう)を訪れて政治の実権を握ります。

 

 

ヘソにろうそくを刺される董卓

 

 

非常に暴虐な行為が多かったので民は苦しめられました。しかし、最期は養子の呂布と仲違いをしてしまい殺されます。ところで、董卓には面白い逸話がいくつか残されています。今回はそんな董卓にまつわる逸話を紹介します。

 

※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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勇気ある漢 董卓

羽林騎時代の若き董卓

 

 

若い時の董卓は任侠の徒を気取って、西方の異民族である羌族の地を旅していました。羌族は現在のチベット系の民族です。董卓は羌族の顔役と仲良くなって、その後故郷に帰りました。

 

 

朝まで三国志 董卓

 

 

さて、帰った董卓は農耕生活に励んでいましたが、ある日の事、羌族の顔役たちが遊びにきます。すると董卓は彼らのために、牛を殺して宴会を催して歓迎しました。羌族の顔役たちは董卓に対して凄く感動したので、国に帰ると彼に莫大なお礼で返したそうです。

 

「この話がどうかしたの?」、「よくある美談じゃないですか?」と読者の皆様は思うかもしれません。

 

実は董卓は国禁を犯していたのです。漢(前202年~後220年)の法律で宴会は許可制であり、勝手に3人以上で宴会をすると罰金4両と規定されていました。

 

 

関羽、劉備、張飛の桃園三兄弟

 

 

だから小説『三国志演義』の「桃園の誓い(とうえんのちかい)」も当時では、犯罪に該当します。つまり、羌族の顔役たちが董卓に感動したのは、国禁を犯しても客に敬意を払う任侠の徒としての心意気だったのです。

 

 

 

疑惑の史料『献帝春秋』

王族ボンビーから一転セレブ09 霊帝

 

 

中平6年(189年)に後漢第12代皇帝の霊帝がこの世を去り、宦官と大将軍の何進との間で激しい権力闘争が起きました。

 

 

董卓

 

 

董卓は何進により洛陽まで呼ばれますが、到着した時には、何進は殺されており袁紹が宦官を皆殺しにしている最中でした。董卓もこの乱戦に参加して第13代皇帝少帝と弟の陳留王を保護して事態を収拾します。

 

まさに漁夫の利!

董卓は少帝が利口ではないことから、弟の陳留王を新しい皇帝として即位させることを決意しました。

 

 

小帝と董卓

 

 

「天下の主は賢くないといけないな。霊帝のことを思い返すだけでムカつくね!陳留王は普通だから少帝よりましだ。まあ、子供の時は利口でも大人になったらどうなるのか分からないけどね。それに劉氏の家系なんて別に残らなくてもいいし・・・・・・」

 

董卓からの提案を聞いた袁紹は怒って口論になり、とうとう洛陽から出ていきます。この逸話は有名であり、小説『三国志演義』でも取り入れられています。残念ながら、上記の話は疑惑があります。

 

これは『献帝春秋』という書物に記されており、正史『三国志』とは相違があるのです。董卓が「劉氏の家系なんて残らなくてもよい」と思っていたのは正史『三国志』にも記されている事実ですが、袁紹は黙って立ち去っただけであり口論になっていません。

 

 

裴松之(歴史作家)

 

 

『献帝春秋』は『三国志』に注を付けた裴松之が、「史籍の罪人」と言っているほどなので史料価値が低いのです。そんな史料の逸話がなぜ今日まで有名なのでしょうか?

 

なぜなら後世の歴史家・小説家のお墨付きがあるからです!范曄(はんよう
)
の『後漢書』・司馬光(しばこう
)
の『資治通鑑』・羅貫中(らかんちゅう)の『三国志演義』・・・・・・史料としては信ぴょう性に欠く・・・・・・だが、面白い!!

 

こんな感じで後世の歴史家・小説家の好みで採用されて今日まで上記の逸話は有名なのです。

 

 

知識階級を大切に!

袁家をイジメる董卓

 

 

董卓はよく悪政を行った悪党として知られており、マンガや小説でもそれが描かれています。ところが、実際はそうでもなく知識階級の人々を優遇していたようです。

 

 

荀彧

 

 

代表例は荀爽(じゅんそう)荀彧(じゅんいく)でした。荀爽は董卓が実権を握ると95日のスピードで司空(国土交通大臣)に昇進!

 

荀彧も間接的ですが董卓からの抜擢を受けたという近年の研究成果が出ています。荀彧が最初に仕官したのは永漢元年(189年)であり表向きは荀爽の縁故で就職したように思うかもしれません。しかし、実際は董卓の意向を受けた潁川郡の太守が荀彧を仕官させたと推測されています。

 

王允

 

 

このように知識階級の人を取り込むことに熱心だった董卓ですが、異様に気をつかい過ぎて、逆に彼らとの間に隔たりが出来てしまいます。

 

王允と呂布

 

それが王允(おういん)や呂布による暗殺に繋がったのです。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

 

先日、書籍の断捨離をしました。2014年から中国史に関する書籍を収集していたのですけど、居室を埋め尽くすだけで、整理出来なくなりました。

 

その数・・・・・・約500冊!さすがに膨大な量の書籍と暮らしていると気分が悪くなってきたので思い切って、処分を決意します。

 

とりあえず、現在使用している漢(前202年~後220年)と三国時代(220年~280年)、さらに筆者の専門分野である宋(960年~1279年)に関しての書籍だけは残して、他の時代は処分することにしました。

 

1冊ずつ確認しながら処分するのですけど、やっぱり名残惜しいのか、ため息が出ます。「手に入れるの苦労したんだよ」、「あの時は100円で買えたけど、今は5000円も値上がりしたんだよ」

 

そんな愚痴がたくさん口から出ました・・・・・・特に吉川忠夫氏の『劉裕』は捨てたくなかった(泣)こうして約1週間かけて整理したので部屋は片付きました。処分された書籍は約250冊!

 

さよなら、私の大切な武器よ・・・・・・

 

※参考

・上谷浩一「呂布叛逆考―『三国志』研究ノート<2>-」(『東洋史訪』14 2008年)

・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)

・田中靖彦「『後漢書』荀彧伝についてー『三国志』との比較を中心にー」(初出2012年 のち『中国歴史人の三国志像』研文出版 2015年所収)

・西嶋定生「秦漢帝国の出現―中国古代帝国形成史論序説―」(『世界の歴史3 東アジア文明の歴史』筑摩書房 1960年所収)

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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