荊州の主として長期間統治していた劉表の跡を継いだ劉琮。劉琮は劉表の死後、中原から河北まで統治していた大勢力・曹操に抵抗することなく、降伏してしまいます。
このことは『はじめての三国志』の読者の方ならご存知かと思います。ですが、劉琮は曹操へ初めから降伏しようと考えていたわけではありません。
本当でしょうか。
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荊州の主として君臨
劉表は荊州の主として州都・襄陽に住んでいましたが、亡くなる間際、可愛がっていた次男・劉琮を自分の後継者にしようと考えていました。そのため劉表は長男・劉琦を江夏へ追い出し、劉琮を後継者に決定。
その後劉表は病のために亡くなってしまいます。こうして劉表の跡を継いで荊州の主として君臨した劉琮ですが、情勢は難しい状況でした。
曹操の大軍がやってくる!?
曹操は袁家を打倒した事で、今まで領土として保有していた中原に加えて、河北全域を手中に収めることに成功します。その結果曹操の領土は中国の半分以上を手にした大勢力として成長。
次なる曹操の目標は天下統一の為、荊州を併合する事です。このような状況の中、劉琮は荊州の主へ就任。劉琮は近い将来、大軍を率いて荊州へやってくるであろう曹操軍に対してどうすればいいか思案をすることになります。
側近達からの進言
劉表の側近として活躍していた蒯越や韓嵩、傅巽らは協議。その結果彼らは「このまま曹操軍と荊州全土を挙げて戦っても勝てる見込みが少ないから、戦いが行われる前に曹操へ降伏する方がいい」と結論を出します。ですが、劉琮の考えは彼ら側近達とは違っていました。
荊州の主の考えは
蒯越達が今後の展望について結論を出した頃、荊州の主は違う考えを持っていました。荊州の主・劉琮は「私は先君の意志を引き継いで荊州の主となったが、このまま形勢を静観しよう」と考えます。
このことから劉琮は荊州の主として君臨したころは、曹操へ降伏する考えを持っていなかったと思われます。さて劉琮は側近であった傅巽へ自分の考えを述べると全然違う言葉が返ってくることになります。
降伏論へ傾く
傅巽は荊州を降伏させないで、形勢を傍観することに終始したいとの考えを聞かされて驚いてしまいます。すぐに傅巽は劉琮へ「物事には道理があるのはご存知かと思います。現在天子を擁している曹操へ逆らうのは物事の道理から外れています。
また荊州が国家に対抗するのは情勢に鑑みても、不可能だと言えるでしょう。更に先君の客人・劉備が曹操に対抗して、勝利を得るのは難しいと思われます。この三点すべてにおいて、荊州が劣っている状況で国家に逆らうのは滅亡へ向かうことになると言えるでしょう。」と劉琮を説得。
ですが、劉琮は傅巽の意見を聞いても納得できない表情をしていました。そこで傅巽は「殿は劉備とご自身を比較してどちらが優れていると思いますか」と質問。すると劉琮は「私の方が劣っている」と悲しそうに答えます。
傅巽は「劉備の力が曹操に劣っているのに、劉備よりも実力不足の殿が、荊州で独立し続けるのは難しいと言えるでしょう。もし劉備が曹操よりも力を持っていたならば、殿の下風に立つことはありません。
ここは曹操へ降伏するのが最善だと思います」と再度曹操へ降伏するように説得します。劉琮は傅巽の進言を受け入れて、曹操へ降伏することに決めます。
三国志ライター黒田レンの独り言
もし劉琮が傅巽の進言を退けて、形勢を静観することに徹していれば、どうなっていたのでしょうか。曹操が軍勢を南下させて荊州を奪うかもしれない状況は、揚州を統治していた孫家にとっても気がかりな事でした。
孫家の家臣・魯粛は荊州の様子を探るため、荊州の主・劉表の弔問の使者として、襄陽へ向かっていました。劉琮が曹操軍に降伏する道を選ばなければ、もしかしたら弔問の使者として訪れていた魯粛と会談し、孫呉と劉琮の同盟が締結していたかもしれません。
孫呉と劉琮が同盟を締結すれば、三国志の時代に劉備が登場するのではなく、劉琮が登場することになったかもしれませんね。
■参考文献 正史三国志蜀書など
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