諸葛亮と龐統は売れ残り?水鏡先生につかまされた劉備


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司馬徽と劉表

 

 襄陽記(じょうようき)によると、劉備(りゅうび)伏龍(ふくりゅう)鳳雛(ほうすう)の存在を伝え劉備が雄飛するヒントを与えた水鏡(すいきょう)先生こと司馬徽(しばき)

しかし、司馬徽には、諸葛亮や龐統以外にも大勢弟子がいました。

それなのに、どうして伏龍と鳳雛だけを紹介して後は知らんふりをしたのでしょう?

もしかして、水鏡先生はケチだったのでしょうか?それとも、外に理由があったのでしょうか、、

 

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孔明と龐統だけではない水鏡先生の弟子

朝まで三国志2017 観客 モブ

 

この司馬徽、人物鑑定家として名声を博していましたが、同時に、多くの門下生を抱える先生としても有名でした。

孔明や龐統、徐庶(じょしょ)以外で、水鏡先生の影響を受けている人には、①向朗(しょうろう)、②尹黙(いんもく)、③李仁(りじん)がいます。

また、④韓嵩(かんすう)や⑤劉廙(りゅうよく)もいますし、孔明の学友とされている⑥石韜(せきとう)や⑦孟建(もうけん)、生涯仕官しなかったくさい⑧崔州平(さいしゅうへい)

司馬徽の孫弟子か、その影響を受けた人々でしょう。

こうしてみると、孔明や龐統以外にも弟子はいるように思いますがどうして、劉備には紹介しなかったのでしょうか?


 

ほとんどの弟子の仕官先が決まっていた

三国志大学 曹操

 

第一には、司馬徽の弟子の大半がすでに仕官して司馬徽の手元には、いなかった点があるでしょう。

向朗は、すでに劉表に仕官していましたし、尹黙は司馬徽や宋忠(そうちゅう)に学び故郷の益州に戻っています。

李仁も元は益州の人で、荊州で司馬徽に学んでから故郷に帰っています。

韓嵩は荊州で劉表に脅迫された上で仕官に応じた後、劉琮(りゅうそう)時代に曹操の軍門に降りました。

後継者をまだ決めれない劉表

 

劉廙は、一族が劉表に仕えたものの、正論を吐いて劉表に嫌われて迫害を受け後に殺害されたので、身の危険を感じ曹操の下へ逃げています。

徐庶の友人の石韜は魏に仕官していますし、孟建も魏で出世して曹休と同レベルの征東将軍へと出世しています。

この中で、向朗や尹黙は、劉備が蜀を攻め取ってから家臣になっていますがいずれにしろ、劉備が荊州にいた頃には、あらかた片付いており、

いるのは仕官の口を選びすぎ、行かず後家になりそうな諸葛亮ともっさりした外見の為に、買い手がつかなかった龐統くらいでした。

龐統

 

kawausoが推測するに、司馬徽としても「売れ残り二人が、まだ仕官できずに売れ残っていますよ」

とは言えなかったので、劉備が「誰か時勢を見る事ができる人物はいませんかな?」と聞いた時に

 

儒生や俗士がどうして時勢を読む事が出来ましょう?時務を識っているのは英傑だけです。

この辺りには、伏龍と鳳雛、すなわち諸葛亮と龐統がいますぞ

襄陽記

 

と、すかさず売れ残りの二名を劉備に勧めたんじゃないかと考えてしまうのです。

土いじりをする劉備

 

だって、それ以外の人材はいなかったわけですからね。

師匠としては、弟子の仕官先に一定の責任感もあったでしょうし・・

 

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伏龍と鳳雛のネーミングは水鏡先生じゃない

司馬徽

 

また、伏龍と鳳雛のネーミングは、実は司馬徽がつけたのではなくその師匠筋の龐徳公(ほうとくこう)のネーミングです。

なかなかカッコイイあだ名ですが、龐徳公にとって龐統は一族であり、諸葛亮の姉は、龐徳公の息子の龐山民(ほうさんみん)に嫁いでいる姻戚(いんせき)です。

意図的にカッコいいネーミングをつけて、仕官しやすくするのは人情ではないかと思います。

孔明

 

それに、三国志演義とは違い、史実の司馬徽は「伏龍と鳳雛、いずれかを得れば天下を取れる」なんていい加減な事は言っていません。

「時流を読む事が出来る、有望な人材が二人残っていますぜ旦那」くらいが水鏡先生に言える精一杯の事だったのでしょう。


劉備に人材を斡旋する力が残っていなかった水鏡

病気になった兵士

 

もう、一つの理由として、司馬徽の健康問題もあります。

こちらの司馬徽は、曹操が荊州を陥落させた後に召し出したものの間もなく病を得て死んでしまったとされています。

つまり、劉備が、「誰か人材はいませんか?」と尋ねてきたころは、かなり健康状態が思わしくなく、骨を折ろうにも出来なかった

そんな状況だったのかも知れません。

徐庶

 

正史三国志の諸葛亮伝では、徐庶が劉備に面会しに行って用いられてから「諸葛孔明は伏龍ですよ、将軍会ってみませんか?」と

自ら孔明のあだ名を明かして、劉備の関心を引き出そうとしています。

 

この徐庶、司馬徽にとっては伝書鳩のような人で司馬徽が龐徳公の家に、電撃訪問を敢行した時にも最初に伝令として龐徳公の家人に

「今から水鏡先生が来るから支度して」と伝えています。

それから司馬徽がやってきて、やれ黍飯(きびめし)を炊けだの家人を指図し全員を整列させて、礼を尽くさせ他人の家でどっしりと構えていました。

その後、龐徳公が墓参りから帰ってきてから司馬徽を見ると、「この人誰?」という感じだったそうです。

法正

 

水鏡先生も相当な空気読めない人ですが、徐庶のアポなし電波少年ぶりも、相当なものですね。

元々、ヤンキーみたいな暮らしをしていたので度胸が据わっています。

 

こういう所から見ると、徐庶が劉備に仕えたのも元々は司馬徽の指図で、それとなく(売れ残りの)諸葛亮の事もPRしておけ、

ただし安売りは厳禁じゃあ、と言い含めていたのではないでしょうか?

自分でそれが出来れば越した事はありませんが、司馬徽は健康が優れず、それが出来なかったのではと推測します。


三国志ライターkawausoの独り言

 

劉備は水鏡先生に、つかまされたとネガティブに書きましたが司馬徽の推薦した諸葛亮と龐統は、劉備が蜀漢を建国するのに非常に役立ちました。

龐統がいなければ、劉備の蜀取りの計画は、ああも上手く行ったか分かりませんし。

それに、諸葛亮は、蜀を全体主義の統制国家として規律していき長い年月、魏と対峙する力を生み出しました。

三国志演義のイメージに引きづられずに冷静に見てみると劉備に拠点を与える事に成功して、三国の一国を生み出す事に貢献した

龐統と諸葛亮の買い物は、そうとうな当りくじだったと断言して差し支えないのではないでしょうか?

 

参考文献:正史三国志、諸葛亮伝、龐統伝 襄陽記

 

※水鏡水鏡先生が、劉備に龐統と諸葛亮しか紹介しなかった理由、あなたは何だと思いますか?

よろしければ、コメントをくださいまし

 

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コメント

  • コメント (1)

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    • アミル
    • 2020年 3月 03日

    とても現実的な推察と思います。
    三國志に興味を持ったばかりの頃は妄信的に信じてましたが、大人になって年齢を重ねるに連れ、『そんな訳ないだろう』と思うことが色々と出てきました。
    以前から諸葛亮や龐統がもし曹操の下に行っていたらそこまで出世しなかったと言われていますし、神がかった天才かのような描写にはやはり違和感を覚えます。
    とてつもなく優秀な人物であった事は事実でしょうが、劉備を見込んでとっておきの人材を天下の為に…みたいな事はなかったのではと思いました。
    選り好みして…とありますが、正にそれを知っていたから後はまともそうなの劉備位だし…程度のものだったのかもしれませんね(^-^;




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