戦国時代は、英雄豪傑が無数に登場してくる時代ですが、同時に、殺人や、放火、略奪、暴行のような戦場犯罪が多発した時代でもあります。
それは、統一された政府がない事による戦乱の隙間で多く発生した事ですが、この戦国の闇の中には人身売買も存在し、それが一つのビジネスになっていました。
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義将に似合わない上杉謙信の人身売買
戦国大名が自分が落城させた城の人間を捕まえて売り飛ばしていた。そのショッキングな事実は、常陸国の寺院の年代記である「別本和光院和漢合運」に出てきます。
小田開城、景虎より御意をもって春中人を売買事二十銭、三十二(銭)程、致し候
長尾景虎時代の上杉謙信が、常陸の小田氏治の城を陥落させた時に城内にいた人間を二十文から三十文、現在価格で二千から三千円で売り飛ばしていたという記録が残っているのです。
これらの事例は、上杉謙信ばかりではなく、武田、伊達、島津のような名だたる戦国大名は全て、征服した土地の住民を捕まえて、二束三文の値段で売り飛ばしていました。
雑兵たちの小遣い稼ぎだった人身売買
中世史研究家の渡邊大門氏の研究によると、戦国時代の女性の人身売買は傾城屋、すなわち遊女屋にルーツがあるようで、すでに室町時代には、規模の大きな遊女屋が登場しており、財政難の室町幕府が傾城の局という役所を設けて税を取っていた記録があるようです。この遊女の供給源として戦国時代の人身売買が存在したと考えられているのです。
戦国時代の足軽は、不足する給与の代替として、敵地での略奪が認められその中で住民を捕らえて、人買いに売り飛ばすのが貴重な現金収入でした。捕らえられた住民は女性は遊女屋に売られ、老人と子供と男は、労働力が不足している村に奴隷として売られていきました。
しかし、そこでも市場の原理は働きます。二束三文で買い上げた奴隷とはいえ、人買いはそれ以上の値で売り飛ばさないと利益を得る事が出来ないので、捕らえられた人々は、商談が成立しない限りどこまでも歩かされ国境いを超える事も珍しくありませんでした。さらには、転売の対象にもなり、何人もの人買いの手を経て、はるかに故郷を離れた土地にまで売られる人もいました。
海外にまで売られた日本人
戦国時代の悪弊として広く行われた奴隷狩りの被害は日本だけに留まりません。16世紀は、ポルトガルやイスパニア船が世界の港に出現したグローバル期でしたが、日本人奴隷は、人買いを通して欧州にも売られていたのです。これは、天正遣欧使節も海外で目撃していた事が記録されています。
1587年、天下人豊臣秀吉は、この状態に危機感を持ちポルトガル商人による日本人の人身売買を禁止しました。同時に秀吉は、全国の諸大名にも人身売買を禁止する旨を命じています。天下人として自国民を奴隷として海外に売る事は許さないという秀吉の強い意志が感じられる措置です。
しかし、それでも人身売買は簡単には無くなりませんでした。ポルトガル商人が直接に日本人を集めたりしなくても、国内に人買いがいる以上、人身売買が無くなる事は無かったのです。
人身売買禁止令は、その後も度々発令され、江戸時代に入った1626年にも禁止令が出ています。労働力が必要という需要があり、人間を攫って売る事に利益が上るという供給が存在する以上、この悪弊を根絶するのは難しいものでした。
結局、人身売買が無くなるのは、鎖国により自由交易が制限された事と戦争が終わって人口が増え、労働力不足が解消されて人買いが商売として成り立たなくなるまで待つしかなかったのです。
身代わりに殺される悲しい解死人
人身売買とは違いますが、戦国時代には紛争の生贄として処刑される解死人という悲しい存在もありました。戦国時代、村と村は水争いなどで武器を取り、大きな紛争に至る事がありました。1592年、摂津国の鳴尾村と河原林村の間で用水を巡る争いがおき、激しい合戦に発展しました。
すでに、豊臣秀吉により天下は統一されていたので、勝手な事をした両村に対し秀吉は激怒し、責任者を呼び出して磔刑に処しています。ところが、この時に村が差し出したのは庄屋や名主ではなく、こんな時の為に村が養っていた乞食だったというのです。
このような存在を解死人と言い、村々は乞食や流れ者のような、正規の村人ではない存在を敢えて何名か養っておいて、村で大事が起きた時に、責任者の代わりに差し出して生贄にしたのです。
気持ちが暗くなるような悲惨な話ですが、ただ、村としても自分達の為に犠牲になる解死人には一定の敬意を示し前述の鳴尾村と河原林村のケースでは、解死人の一人が「自分が処刑されるかわりに、どうか自分の子孫の地位を引き上げて欲しい」と頼んだのを聞き入れたと言われています。
戦国時代ライターkawausoの独り言
戦国時代の闇である人身売買について書いてみました。実際には、戦国大名ばかりではなく、鎌倉末から戦国にかけてアジアの海を跳梁した倭寇も人身売買が重要なビジネスでした。
牛馬よりも力はないものの、自分で考えて動く事ができる人間は、労働力が不足した地域の人間にとっては十分な商品価値を持つ重要な存在だったのです。これこそ、人買いが存在できた大きな理由でした。
そこに需要と供給の関係が生まれ、目先の利益を求めて多くの悲劇が生じたとすると、なんともやりきれない話ですね。
参考文献:最新研究が教えてくれる あなたの知らない戦国史
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